魔性と仏性 心の闇を照らす仏の教え
25人の犠牲者を出した大阪・北新地の放火殺人事件。現場となった心療内科クリニックには600人以上が通院していた。容疑者の男もまたその一人だった。彼は多くの人々を巻き込んで自殺しようと、前々から計画を練っていたという。この事件を拡大自殺とも呼ぶ識者もいる。拡大自殺の背景には、社会に対する孤立感と深い絶望があるとされる。
しかし、そのような孤立感や絶望に苦しんでいる人は容疑者だけではない。拡大自殺と言っても、これは許されざる大量殺人である。彼が死亡した今、どうしてこんな事件を起こしたのか、本人の口から聞く機会は永久に失われた。
この事件を巡っては様々な意見があるだろう。軽々な議論は慎むべきであるが、宗教者、仏教者の立場として一つ求められることは、人間の心の闇の部分への洞察だと思う。容疑者は5年前からクリニックに通院しており、他の通院患者と同じように社会復帰、職場復帰を目指していたはずだ。それがいつしか心の中に魔性を棲まわせてしまった。いや、たとえ魔性が棲んでいたとしても、普通の人はそれを心の中に収めておくことができる。だが彼にはそれができなかった。
それにつけても思うのは、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という親鸞の言葉である。しかるべき業縁が促せば、人はどんな行いもするだろう。しかしこれは、人間の犯す悪を全て業縁や内なる魔性のせいにしてしまえという意味ではない。そうではなく、これは、悪事を行おうとしても業縁がなければ悪いことはできないし、悪事をしないと思っても業縁があれば悪を犯してしまうという、人間的現実に対する深い洞察なのである。
この洞察を得れば、誰もが苦の大海を諦観し、また仏の慈悲によりそこから救われる足掛かりも見えてこよう。いかなる人をも救済するのが仏であり、人間誰もが仏に救済される本性を自らの内に持つ。この本性こそが仏性だとも理解できよう。人が仏性を開花させるためには、業縁や内なる魔性を自覚することが不可欠である。
仏教は、誰の心の内にも仏性があると説く。僧侶には人に魔性を知らしめ、仏性を開花させる務めがある。それには時間がかかるが、僧侶は一人一人に応じて根気よく仏法を説いていかなければならない。対機説法は僧侶の臨床的対応である。苦海にいる人々に対して、心の闇を仏の教えによって照らし、魔性を滅却して仏性を育てる役割を今後も僧侶に一層期待したい。