排外主義の危険性 ヘイトクライムを防ぐ
第2次世界大戦中、米国西海岸に住んでいた多くの日系人(1世)が強制収容所に入れられた。敵国の人間であり、危険と見なされたからである。しかし同じ敵国であったドイツからの移民1世は収容所に入れられなかった。真珠湾攻撃があったことも関係するだろうが、根底にアジア人蔑視があったことが指摘されてきた。
戦争が起こると、人種や出身国の違いなどを理由に、無差別の憎悪が広がりやすくなる。ロシアのウクライナ侵攻によって、日本に住むロシア人がロシア人というだけで非難される。掲示案内からそれまであったロシア語の表記が消える。そうした事態も伝えられるようになった。
1世紀前だが、関東大震災の後、多数の朝鮮人が虐殺されたという暗い過去もある。日本人は外国人や異文化にも寛容であるというのは、社会が比較的平和である時期を見ての話であろう。社会不安が広がると、排外的な動きは、これまでもあちこちで起こった。
日本社会もグローバル化が進行し、現在は二百数十万人の外国人居住者がいる。それでも人種的、民族的偏見はなくならない。偏見に基づくヘイトスピーチはあちこちで見られる。ヘイトスピーチはヘイトクライムの苗床である。
排外主義的な考えに取りつかれる人はどの国にも見られるが、それが社会的に広がる上で、政治的リーダーの姿勢も影響する。米国ではヘイトクライムがトランプ政権時代に目立つようになった。日本でも国会議員や知事の中に、多文化共生とは程遠い発言を繰り返す人がいるのは周知の通りだ。
ヘイトクライムは、社会が混乱すれば増加する。ならば、比較的混乱の少ない社会状況の時に、そうしたものが育ちにくくなる教育を施したり、社会的仕組みを考えたりしておかなければならない。
ヘイトスピーチやヘイトクライムに対する反対の動きが、日本の宗教界に確固としてあるとは言い難い。近隣のアジア諸国への排外主義があらわな教団も存在する。このような団体は社会の不安や混乱に乗じて、その排外主義的な姿勢を前面に出す可能性もある。
平和の祈りを実りあるものにするなら、日頃からこのような排外主義的主張に異を唱える動きもまた求められる。共に祈る姿勢はつくりやすいが、危険な動きに警戒を発するのは難しい。それ自体が軋轢を生む可能性があるからだ。
ヘイトクライムの推進力となるのは怒りや不安の感情である。人間がこれらと無縁になることはない。宗教にはその爆発を未然に防ぐ役割の一端を担ってほしい。