リモートでは限界 コロナ下でのふれ合い重く
コロナ禍が長引き、ステレオタイプに人同士の接触を排除する傾向が続く。だが、人間にとって極めて大事な「ふれ合い」を、状況を勘案することなく退けることの危険性も各方面から指摘されて久しく、例えば大阪で幼稚園を運営する寺院住職は、情操教育において「園児も保育士もずっとマスクで表情が見えない状態のままでは危ない」と警告する。
そんな中でも、感染防止に工夫しながら子供たちの交流や居場所づくりに取り組む宗教者も各地に多い。長年、放課後の小中学生らに寺を「子ども文庫」として開放し、親しまれてきた奈良県の寳樹寺は、今年に入っても「おやつ」を持ち帰りに、密になるゲームを中止するなどの措置を講じながら毎週のように続けている。
児童らの歓声が響く本堂で、中村勝胤住職は「リモートでは絶対に伝わらないものがある。特に小さな子にはスキンシップは大事」と実感している。複雑な家庭環境や塾通いなど子供の置かれた事情は様々で、「ゆっくり安らげる『文庫』は、いわば彼らの不可欠なインフラ。単純に閉鎖、はあり得ない」と話す。
三重県の西光寺では、寺の前の畑で子らが季節の野菜を栽培し、親たちも含めて一緒に食べる「さいさい」という行事を継続してきた。食事はさすがに制限しているが、工作や花の種まき、自然観察会も取り入れながら、四季折々の畑仕事、ジャガイモやホウレンソウなどの作物収穫に汗を流す。
先日は、畑で収穫後に抜いたブロッコリーの株にまだ豆粒ほどの実が残っているのを幼い参加者が見つけて喜びの輪ができ、皆でいくつ探し出すかという“競争”に笑顔が広がったという。
「さいさい」を運営する寺族の西千晴さんは「対面で、人のつながりとともに自然を五感で感じるという体験は、子供にも参加する大人、スタッフにも貴重なことです」と強調する。土の温かみや匂い、植物の発芽、そこにいる虫などの動きは映像やデジタル情報では体感できないのだ。
インターネットなどリモートの一面の便利さから、まるでそれが万能であるかのような浅はかな勘違いも広がっているが、リモートで全て事足りるような取り組み、行事や仕事は、元々その程度のものであろう。
生身の人間のふれ合いでしか得られないものの重みは、宗教者がよく知っているはずだ。そもそも宗教そのものが、単なるメディアによる「情報伝達」ではなく、人間同士の向き合いを前提にしたものであるのだから。