問い直されている 自由社会日本の成熟度
日本は国の財政が火の車なのに地政学的条件を背景に防衛政策やそのコストを巡り、宿命的な論争が続く。だが、いくら国防に力を入れても安全な社会は築けない。選挙遊説中の安倍晋三・元首相が暴徒の凶弾に倒れた事件で、そのことを改めて認識させられた。安倍氏は防衛費倍増や9条改憲を主導し、改憲4党で3分の2以上を占めた参院選の結果を受け、持論を推進するはずだった。それだけに事件の悲劇性は余計に際立っている。暴力は全て受け入れられないことを、重ねて表明しておきたい。
今後、暴力のハードルが低くならないか懸念がある。そのためにも事件の真相究明と情報開示が強く求められる。同時に強調しておかねばならないのは、国の安全保障と防衛力の強化は次元の違う話だということだ。今回の事件で国民の安全を巡る自由な言論に委縮などの影響があってはなるまい。
人類は数々の戦争の惨禍を踏まえて自由と人権、共感や思いやりなど近代国家が培ってきた普遍的な価値、また、宗教界が発する愛と慈悲のメッセージを深化させており、国の安全保障を成功へ導く力になるはずである。軍事力に頼るだけで平和は得られない。
だが、人は時代の潮流次第で自ら自由を手放し、また、自由が重荷になって、その重荷に耐えかね全体主義イデオロギーを希求することさえあるようだ。それを主テーマにしたエーリッヒ・フロムの主著『自由からの逃走』に下記の文章がある。フロムはドイツの社会心理学者でナチスに追われ、米国に帰化した人。同書の出版は第2次大戦中の1941年である。
「われわれは外にある力から自由になることにますます有頂天になり、内にある束縛や恐怖の事実に目をふさいでいる」「自由の問題はたんに量的なものではなく、質的なものであることを忘れている」。つまり人は「世論とか常識など匿名の権威」に迎合しやすく、その結果、自由を形骸化させ、社会の破滅を招いてしまうという歴史の証言と受け取れよう。
さて、日本はどうか。フロムの文章ですぐに「忖度」という言葉が浮かぶ。安倍政権時代の政治手法から生じた、言葉よりも空気で上司らの意向を推し量るという意味。そのことと関係するのか、約10年前から自由のサイズが小さくなったという指摘があるのは注意が要る。一例だが、報道の自由の国際評価が2010年に11位だったのが今年は71位になった。途上国並みだ。言論の自由の衰弱は民主主義の土台を揺るがす。忘れてはならない根本原則である。