「対馬丸」事件から80年 過去の悲劇で済まされぬ(8月2日付)
いつの時代も戦争は多くの子どもを犠牲にする。1944年8月、沖縄から九州に向かう学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦に撃沈された事件は、学童784人を含む1484人が死亡する、筆舌に尽くせぬ痛ましい出来事だった。多くの霊が、今も海底871㍍の船体の中に放置されたまま眠っている。
沖縄は当時、サイパン陥落で次の戦場になるのは不可避と見なされ、国は増強する軍守備隊の食糧確保のための“口減らし”と将来の兵員調達を兼ね、学童疎開を進めた。周辺海域では既に日本の船舶が相次ぎ米潜水艦に撃沈され、疎開は危険を伴った。だが、二等国民扱いされ、本土との同一化を悲願とする沖縄県は国策に全面協力し、国民学校校長らを介して尻込みする父母まで疎開に同意させるよう教員に強く説得させた。
「対馬丸」は、ほか2隻の疎開船と護衛艦2隻に守られ出航したが、8月22日夜、鹿児島県・悪石島付近で沈められた。護衛艦は救助活動せず、残る2隻の疎開船と共に走り去り、生存者は学童59人ら計約280人だけだった。
「さんざめる子らを乗せたる対馬丸わが目の前で魚雷命中す」
引率教師として、生き残ったことを生涯恥じ続けた新崎美津子氏が残した句の一つである(娘の上野かずこ氏が母の手記を基に著した『蕾のままに散りゆけり』から)。この事件は生存者の心にも深い傷を刻み付けたが、その後沖縄戦があり、本土も空襲で焦土化した。去るも地獄残るも地獄の歴史が待ち受けていたわけだ。
2014年、上皇さま(当時天皇陛下)は美智子さまと那覇市の対馬丸記念館を訪問された。その際「護衛艦は救助できなかったのですか」と尋ね、さらに軍艦が果たすべき任務などについて異例の質問を重ねたと報道された。軍が助けを求める学童らを置き去りにした事情はいま一つ明確でない。上皇さまは、遺族らに残るわだかまりを気遣われていたのだろうか。
「対馬丸」の悲劇は、沖縄と本土との積年の関係性を象徴するように思える。近年、国は「台湾有事」に備え石垣島など先島諸島で自衛隊の進駐と装備を強化し、全島民ら12万人の九州、山口への避難計画を練り始めた。既視感のある情景だ。先の大戦で沖縄は本土防衛の「捨て石」にされたが、そんな歴史の文脈の中で、昨今の動きに本土側の無関心は許されまい。中国と武力衝突したら、米軍基地も集中する沖縄が防波堤になるなどという意識があるなら、過去幾重にも重なる沖縄を犠牲にした自己保身策を踏襲してしまう。