排すべき思い込み 毒物カレー事件映画で(9月6日付)
「和歌山毒物カレー事件」を描いたドキュメンタリー映画「マミー」が公開され反響を呼んでいる。以前から指摘されている死刑判決への疑問、冤罪の疑いを緻密に指摘した一方で、よく作り込まれた多くのドキュメンタリーがそうであるように、この映画の内容、そして作品自体が社会の縮図ともなっている。
事件は1998年7月、和歌山市内の住宅地で夏祭りのカレーの鍋に猛毒の亜ヒ酸が入れられ67人が急性ヒ素中毒となり、うち4人が死亡したものだ。住民の主婦が犯人として逮捕起訴され最高裁で死刑判決が確定したが、この主婦H死刑囚は再審を請求中だ。
映画は家族を含めた関係者の証言や現場での検分によって抑えた調子で死刑判決の疑問点を次々検証していく。Hがカレー鍋のふたを開けるのを見たという証言の不自然さ。シロアリ駆除業であるH宅にあった亜ヒ酸と鍋のそれが同成分だとの鑑定も、別の専門家が「杜撰」と欠陥を批判する。
被告は否認し動機も不明のままに「状況からしてH以外に考えられない」という検察の論法は、自供や動機、本人が実行した直接証拠や目撃証言を積み重ねる「精密司法」という刑事裁判の通例を覆すものだとの指摘が起訴当時から新聞報道でもあったが、映画はそれを克明に映像で示し、観客の思考を促す。
そして、殺人事件に先立ちH夫婦が亜ヒ酸を使った保険金詐欺事件を次々実行したことも冷静に示し、共犯とされた家族がまるで自慢するかのようにそれで大金を得たことを認める衝撃的な場面もある。これが、「とんでもない人物。それなら殺人もやりかねない」という“見立て”を醸成し、“状況証拠”につながったのだ。
ただ、そんな世間的な偏見や思い込みを報道が無責任にあおった、というメディア観はいささかステレオタイプな面もある。この映画自体もマスメディアなのだが、例えば監督が関係者にカメラとマイクを向け、嫌がるのをそのまま撮影しているのは、「非協力的で事実解明から逃げる人」とのイメージを一方的に観客に植え付ける。問題は世間もメディアも共に「怪しい」という予断を同レベルに抱き、互いに増幅し合ったということであり、その点こそが深掘りされて然るべきだった。
そして大事なのは、一般にどんな思い込みの偏見からも自由である姿勢だ。99回盗みを働いたからといって100回目は違う、という事実をしっかり見極める冷静な繊細さと勇気。宗教者なら当然、その機微を備えているだろうが。