憂うべき国際関係 危機だからこそ冷静に(9月25日付)
ロシアによるウクライナ侵攻から約2年8カ月、またイスラエルとパレスチナの紛争は約1年が経過したが、いまだに終戦の糸口が見えない。戦争はいったん起こってしまうと、それを止めるのは極めて困難になる。シリアの内戦やミャンマーの軍政による弾圧も続いている。この上に東アジアでの台湾有事ともなれば、それらが複合的な連鎖反応を引き起こし、世界を巻き込む戦争にならないとも限らない。実際、第2次世界大戦の時も、地域の異なる幾つもの戦争が複合して行われたのだった。
その意味で「新しい戦前」という言葉が昨今、真剣な重みを持って語られるようになった。とりわけ日本にとって、緊張の度合いが高まっているのは対中国関係であろう。近年、常態化している領海侵犯のほか、先般では長崎県沖での領空侵入も起こり、中国には挑発的とも取れる行動が目立つ。中国国内でも、市民による反日的行動が重なり、先日は日本人学校に通う男児が殺害されるという事件が起こった。
確かに中国では学校教育の中で長年にわたり反日教育を行い、潜在的な反日感情が醸成されている。社会不安が起こっても、非難の矛先を政府ではなく、日本に向けるというあしき状態が続いているのも事実だ。対する日本の側でも、そうした事態に対して憤激する世論があり、人々の間で反中感情が高まっている。緊張の水準も危機的な状況に近づいているように思える。しかし、危機的であるからこそ、我々は敵対感情にたきつけられないよう、最大限に注意を払わなければならない。
敵対心にとらわれず、事態を冷静に捉えて、地道な外交努力をもって相手に働き掛けていくことが肝心である。そしてそこにこそ宗教、とりわけ仏教の出番があるのではないだろうか。幸い、日本も中国も共に仏教国である。釈迦の知恵、菩薩の慈悲をもって日中の仏教者がじっくりと平和と共存について語り合うことは、十分に可能であろう。
「力による支配」の論理になびきがちな国際関係にあって、我々は「法の支配」の原則を守っていくべきである。ここでの法は、いわゆる国際法にとどまらず、衆生の平和と救済を目指す仏法をも意味する。そのためには、いかなる人間をも尊重する常不軽菩薩のように、自ら敵対心を持たず、また相手にも敵対心を持たせないという努力が必要だ。仏教者が自らの宗教言語を、どれだけ世界平和、戦争否定の文脈で発信し対話することができるか、今こそ正念場であろう。