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なぜ「布教」をネガティブに 善き行いに踏み出す自信を

東京工業大教授 弓山達也氏

時事評論2019年3月11日 10時26分

昨年末から今年にかけて「現代における宗教の役割研究会(コルモス)」や国際宗教研究所の企画に出席した。最近ではいろいろな分野でアクティブラーニングが叫ばれているせいか、こうした大きな集まりでもグループディスカッションや交流会のような場面があって、宗教者の「遠慮」「躊躇い」のような本音に触れることがあり、思うところがあった。

コルモスでは死刑がテーマの一つとなり、7、8人の少人数のグループディスカッションで、筆者は宗教者こそが教誨活動のような罪を犯した者への寄り添いとともに、犯罪被害者への支援をしてはどうかと問題提起をしてみた。ちょうどコルモス開催の直前のクリスマスイブに、アイドルユニット「ももいろクローバーZ」のライブに犯罪や事故で親を亡くした子どもたちが招待されたという報道に触れたことが念頭にあったからだ。

グループは筆者以外は全員宗教者だったが、宗派内でこうした活動をしているのを聞いたことがないといい、同時に一人も賛同を示さなかった。理由は「布教と思われるから」だった。

同じような場面が社会的なマイノリティーや地域の人々への宗教者の関わりを検討した国際宗教研究所のシンポジウムでもあった。2月27日付の本紙社説で記されたように、こうした活動のつまずきとなっているのは同じ宗教者からの無理解であるとともに、一般社会からの「布教目的ではないか」という疑義だという。

いったい、宗教者が布教をして何がいけないのだろう。

第一に考えられるのは、善意に基づく行為と個人や団体の利益を結び付けてはいけないという発想である。しかし、そもそも布教は個人や団体の利益のために行われるものだろうか。宗教の公共性が取り沙汰されて久しいが、もし宗教に公共性があるのなら、むしろその恩恵の機会が増えることは望ましいことではないだろうか。

第二に布教を宗教者がネガティブにとらえていることは、もっと単純に本紙社説が言うように「行政や一般の人たち」の目が気になるだけ、つまり遠慮なのかもしれない。しかし、さきの子どもたちを招いた(正確には招待したのは警視庁だが)ももクロを「売名行為」とか、「営利目的」と(たとえそうだとしても)非難する人たちを筆者は寡聞にして知らない。

善き行いをしようとする時に躊躇いを感じることは誰でもよくあるし、独善に陥らないためにも必要なことなのかもしれない。しかし死を典型例とする苦難をどう意味づけて慰撫するのか、あるいは善悪をはじめとする価値に、いかに関わるかは、長く宗教の得意分野だった。世俗のセクターがそれにとって代わっても、宗教が強い力を持っている領域だと思う。

世間から「布教と思われるから」と遠慮し、宗教の持っている力を発揮できないでいるからこそ、世間から宗教の存在意義を問われ、宗教者が萎縮するという負の螺旋があるような気がする。善き行いに踏み出すことで、世間もそれを認め、それが宗教者の自信につながるようなスパイラルを生み出せないかと思う。

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