希望を語れているか 大事な日常性と共同性の回復
北海道大教授 櫻井義秀氏
バイデン・アメリカ新大統領の就任演説を聞いた。
容易ならざる課題が二つあげられた。激しい選挙戦に顕在化した分断されたアメリカを統合する困難。新型コロナウイルスで危機にさらされた生命の安全と経済を回復する困難である。バイデン氏はその困難を克服する決意と能力をアメリカ建国史に遡って確認し、国民に何度も結束を呼びかけたのである。
オバマ元大統領ほどではないが、バイデン氏の声には落ち着きと張りがあり、英語字幕で読んだ文章には、誰が聞いてもわかるような平易な言い回しが用いられ、主題が聴衆に届いたろう。牧師の説教を聞いている気分にもなった。
大統領就任式では、新大統領がゆかりのある聖書に手を置き、民主主義と共和制という神の賜物を得たアメリカの建国の歴史を振り返り、アメリカの繁栄が神に嘉されていることを確認する。このおなじみのスタイルを、ロバート・ベラーは市民宗教と呼んだ。
アメリカには特定の教派(デノミネーション)の教えを超越した神観念があり、英国植民地から信教の自由を求めて独立し、13州が対等な立場で結束して合衆国を形成した。「自由」「結束」「平等」の市民宗教的価値観は、19世紀の南北戦争や20世紀の公民権運動によって200年をかけて何度も危機にさらされ、そのつど復活してきた。ブラック・ライヴズ・マターもその流れにある。だからこそ大統領は危機の時代に歴史を語ることで結束を呼びかけ、国民は集合的記憶をたどることで可能性を信じられるのだろう。
バイデン大統領は、トランプ前大統領の政治的遺産である孤立主義やポスト・トゥルース(客観的事実よりも信じたいことを真実とする)の政治をどう変えていくのか、政治的手腕が問われている。悲観的・批判的論評もあるが、希望を語るスタイルがアメリカに残っていることにアメリカのレジリエンス(回復力)を見た思いがした。
さて、日本である。新型コロナウイルスの感染拡大から1年。菅義偉首相の「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」として東京オリンピックを開催するという決意に、何割の日本人が希望を感じるだろうか。
話の上手い下手ではない。首相だけの問題でもない。国威発揚や景気浮揚はさておき自国民の医療保障すら危ういのに、日本や海外のアスリートたちに安全な試合環境を提供できるだろうかと多くの日本人が心配している。IOCのバッハ会長は「日本人には忍耐と理解を求めたい」と述べたが、政治家たちは人々の思いを汲み取れていない。
私たちは1年間コロナ禍に耐えてきたが、さらにもう1年の忍耐を強いられそうだ。そうであれば、指導者たちは希望を語らなければいけない。
私は今年度の後半の授業においてオンラインをやめて対面式にした。感染のリスクはマスクと換気だけで回避できた。学生たちは授業中や前後の時間に友人との無駄話を楽しむことで、一部なりともキャンパスライフを回復した。
日常性と共同性こそ、現代日本において最も欠落しているものである。宗教界は希望を語れているだろうか。