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さかはら監督「AGANAI」 「対話」は継続するべきだ

京都府立大教授 川瀬貴也氏

時事評論2021年8月20日 10時36分

1995年は、阪神・淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた「厄災の年」として、人々の記憶に刻まれる年であろう。その地下鉄サリン事件から4半世紀以上の歳月が流れたが、先日、「被害者」によるオウム真理教をめぐる映画が完成し、公開された。今回はその「AGANAI――地下鉄サリン事件と私」という作品を紹介しつつ、この事件を再考してみたい。

監督のさかはらあつし氏は、事件当時広告代理店に勤務しており、その通勤電車でサリンの被害に遭った人物である。これまでもサリン事件後のオウム信者を追ったドキュメントは複数存在しているが、被害者の立場から「対話」を試み撮影したというのは、今回のこの映画が初めてだろう。この映画は、現在も「アレフ(オウム真理教の後継団体)」の広報部長である荒木浩氏が、さかはら監督と一緒に「ゆかりの地(2人は同世代でともに京都大の卒業生であり、両者の田舎が京都側および兵庫側の丹波地方という偶然もある)」をめぐりながら「対話」を重ねていくという特異なロードムーヴィーである(撮影時期は2015年3月でまだサリン事件の主犯たちは処刑されていない)。

私はある映画館のイベントでこの映画をめぐってさかはら監督と対談することとなり、2回視聴した。最初に見たときには、映画の最後あたりの「さかはら一家と荒木氏の会談」がクライマックスだと思った。「被害者」の両親とも対面する羽目になった荒木氏が苦しそうに受け答えするが、結局「素直」な謝罪の言葉はどうしても口にできない荒木氏の表情が印象的だった。

だが、2度目の鑑賞時には、後半よりも前半部分、すなわち監督と荒木氏が、荒木氏の「根(ルーツ)」ともいうべき丹波、高槻(荒木氏の故郷)、京都大学、鴨川べりという「思い出の場所」を順番に回っていく部分が印象深い。たとえば荒木氏は、可愛がってくれた祖母の家の最寄駅に来た時につい涙を流したり、子供の頃遊んだ神社の境内を散歩したりするのだが、そういう「根」を断ち切って出家したはずの荒木氏に対し、さかはら監督は「出家したと言っても、お前はこういう根を実は断ち切れていないだろう」と、ある意味意地悪にも説得し続けるわけである。

実はこの映画は、そういう荒木氏に対するさかはら氏の過剰なまでの「お節介」及び「追い込み」が主題になる特異なロードムーヴィーとなっている。ドキュメントや取材で実際に「中立」はあり得ないとは言え、ここまで撮影対象に介入していく例はあまりないだろう。

そしてこの映画のほろ苦いエンディング(できれば劇場で確かめてください)を見たとき、あまりにも大きすぎる罪に対する「贖い」とはどこまで可能か、という問題に我々は改めて向き合わされる。贖いの言葉を発すること自体がその事件を陳腐なものにさせるような場合は、誠実さゆえに沈黙せざるを得ないだろう。だが、贖いは不可能かもしれないが「対話」は継続されねばならない。僕もまた、そんな陳腐な結論を抱きかかえるしかない、と思わせる映画だった。

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