スペイン風邪禍の死生観 死という「絶対」から諦念へ
東京工業大教授 弓山達也氏
これまでも時々触れたスペイン風邪禍の調査で8月に福島県会津若松市の県立博物館、福島市の歴史資料館と県立図書館を訪ねた。図書館で『福島新聞』に「流行性感冒と聖上御軫念」(大正8年2月6日)という記事が目についた。国民千人あたり7、8人が死去し裕仁・雍仁両親王も罹患したスペイン風邪について、宮内省図書寮編『大正天皇実録』にこの災禍に関する奏上の記述がなく、不思議に思っていたからだ。
記事には、耶麻郡吾妻村で276人の住民のうち270人が死亡し、天皇皇后が心を痛め、詳細を求め、これを受けた内務大臣が全国への報告を命じたことが書かれている。天皇への奏上がないわけがないと思っていたので、記事は大きな発見であったが、吾妻村の惨状には目を疑った。
吾妻村は、現在の猪苗代町で、磐梯山の東北に位置していた。ちょうど会津若松市から福島市へ移動したところだったので、磐越西線で近くを通ってきたことになる。そこで思い出したのはやはりスペイン風邪で死去した猪苗代出身の野口英世の実母鹿子のことである。調べてみると吾妻村と同じ耶麻郡、磐梯山の南の翁島村で大正7年11月10日に亡くなっている。
鹿子の死去は新聞でも報じられていたが、英世は当時米国滞在で、実子の気持ちを知ることができなかった。図書館の郷土誌コーナーを見ると英世の書簡を収録した丹実『野口英世』第2巻があった。多くは恩師小林栄との往復書簡であり、鹿子をめぐるやりとりを見つけることができた。
小林は学校の先生らしく鹿子の容態の変化から亡くなるまでを詳細に綴り、葬儀についても出席者名はもちろん、供花の大きさまで記している。それに対し英世の返信は母の死を知ってから約3カ月後。決して長くはない書面には「大に驚き」としながらも「兼而より覚悟の上なれば人生観より已むなきことゝ諦め申し候」としたためられていた。母の死はもちろん、恩師の厚情を前にやや冷たいのではないかという印象を抱いたが、かかる「諦め」は、スペイン風邪禍の記録でよく目にした。
先の雍仁親王も重体に陥り、「俺に寿命がなければ治らないよ」と述べたといい、与謝野晶子も「死の恐怖」で「病気に罹って死ぬならば、幾分其れまでの運命と諦めることが出来る」と記している。ただこれらを単に病いの前に諦めているととるのは早計だろう。英世は先の文言に続けて「生と死との境界は此世のことのみで生前と死後とを考ひれば現生は単ニ一時の足留めニ過ぎざる」と、「生死ニ境なし」という死生観を開陳する。
そして母が亡くなった瞬間にバハマの勤務先で母を思い出したとも述べる。つまり亡くなっても母を感じることができるからこそ、諦めることができるというのだ。与謝野晶子も死という「絶対」があるから生を意識することができ、その交錯の中に前述の「諦めることが出来る」という。
もちろん病いで肉親を無念に亡くした親族に「諦め」の途を説くつもりはない。スペイン風邪禍の中で自らの死生観を明確にすることで、その悲しみや恐怖を克服していった事例として記しておきたい。