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第15回「涙骨賞」受賞論文 本賞

現代の「マリア観音」と戦争死者慰霊

―硫黄島、レイテ島、グアム島、サイパン島の事例から―

君島彩子氏
1章 硫黄島の《マリア観音》

近年も映画の主題となるなど、激戦地として知られる硫黄島は1968年に日本へ返還されるまでアメリカの施政権下におかれ、現在は海上自衛隊と航空自衛隊の基地として使用されている。自衛隊が作成した地図にも記載されているように、島の南北2箇所に「北観音」と「南観音」という地名があり、《マリア観音》は「北観音」に建立されている。

1.1 硫黄島の戦いと和智恒蔵

硫黄島は小笠原諸島の南端に位置する東西8キロほどの小さな島である。もともと無人島であったが、1891年に日本領土に編入され島民が暮らしはじめた。1944年、小笠原諸島の防備強化を開始し、陸軍部隊と海軍部隊が硫黄島に進出、アメリカ軍の空襲、砲撃が開始され、島民は硫黄島を離れた。1945年2月18日から3月22日にかけて「硫黄島の戦い」が繰り広げられ、日米双方で多くの兵士が命を落とした。

硫黄島南部の摺鉢山でジョー・ローゼンタールによって撮影された《硫黄島の星条旗》は、アジア太平洋戦争のイメージとして広く知られ、後にこの写真をもとにした《海兵隊戦争記念碑》がアーリントン墓地に建立された。《硫黄島の星条旗》に代表されるように、「硫黄島の戦い」はアメリカの戦闘と勝利のイメージと深く結びつき、アメリカ国民にとって象徴的な意味をもった。

戦後、アメリカの施政権下となったことで、硫黄島は軍事基地として使用された。アメリカとの関係から、島内に多く残された日本兵の遺骨の収集も進まなかった77真崎翔2015「戦後日米関係を背景とした硫黄島戦没者遺骨収集事業の変遷」『小笠原研究年報』(39)pp.21-36。。硫黄島における特殊な状況の中で、早い時期から「仏教による死者供養」という大義名分によって遺骨収集の中心的な役割を果たしたのは、元海軍大佐の和智恒蔵であった。

和智は、1944年3月に硫黄島警備隊司令の任で硫黄島に海軍中佐として赴し、大佐に昇進した。しかし陸軍の栗林忠道中将と対立し、アメリカ軍上陸前の1944年10月に内地に転属になり敗戦を迎えている。和智は戦後すぐの1945年8月末には、アメリカ海兵隊のヘイワード大佐に、日本兵の遺骨を収集するため硫黄島へ渡航することを申し出ていた。さらに、自分だけが生き延びたという自責の念もあり、同年11月、硫黄島で亡くなった人々の供養のため、京都の空也堂(極楽院光勝寺)で得度し、天台宗の僧侶となった。

和智が僧籍を取得したのは純粋に供養のためだったに違いない、ただし短期間の修行で僧籍を得た和智は、宗門へのこだわりはなかった。1946年4月から9月まで、和智は巣鴨プリズンに拘禁されている。そこで元海軍大佐の肩書を捨て欧米人の関心の高い仏教僧となることで、極東裁判の証人として発言する際などにその立場を戦略的に使用した88上坂冬子1993『硫黄島いまだ玉砕せず』文藝春秋、pp.56-57。。海外勤務経歴のある和智は、英語、スペイン語に通じており、語学力を生かし、硫黄島を慰霊訪問したいという願いの手紙をGHQ要人ばかりでなくアメリカ大統領にも送っている。

1.2 破壊された観音像と得体の知れない像

和智が硫黄島渡航の許可を得て、遺骨収集の予備調査と慰霊渡航を行ったのは戦後6年目であった。1952年1月、和智は黒染めの衣に茶色の袈裟をかけ、あみ傘を被り、木魚がわりに瓢箪を下げ、《平和観音》を抱きかかえLST(戦車揚陸艦)に乗船した99『読売新聞』(1952年1月25日)。。渡航に際して、四天王寺、高野山、比叡山、護国寺そして京都仏教和敬会など多くの仏教関係者から特使として任命された。さらに出雲大社や靖国神社、YMCAからも支持を受けるなど、日本の宗教界を代表し硫黄島へ渡航することとなった1010西村明2012「いのちのリハビリテーション――遺骨収集と戦地慰霊への宗教者の関わり」『宗教情報センター』http://www.circam.jp/columns/detail/id=3756(2018年3月10日閲覧)。

和智はこの渡航で日本軍最後の抵抗地点である最北部を「北観音」と名付けた。「干戈激闘噫傷心 雲涛千里海陽沈 戦火終焉怨讐滅 霊回向北観音」と七言絶句を刻んだ台座の上に、彫刻家の島村亮明が制作した石製の《聖観音菩薩坐像》を安置した1111硫黄島協会1978『会報』(9)、p.115。

また日本軍が拠点とし、《硫黄島の星条旗》が撮影された摺鉢山の麓を「南観音」と名付けた。そして持参した《平和観音》を、「丘上新碑影 星條旭日翻 麓盤尊像妙 藹々洽山嶺」と五言絶句が彫られた厨子に納めた1212硫黄島協会前掲1978、p.115。。この《平和観音》は巣鴨プリズンの教誨師を中心に発願され、護国寺で開眼法要が行われた108体のうちの1体であった。造形的には法隆寺の《夢違観音》を模したブロンズ像で、同時に開眼された像は《特攻平和観音》として、鹿児島県の知覧や東京都の世田谷観音にも安置されている。

和智は最初の硫黄島渡航で日本兵の遺骨が粗末に扱われ、アメリカ兵が蝋燭立に使う土産として日本兵の頭蓋骨を持ち帰っていることを知った。この状況を改善するため、1953年、硫黄島における遺骨収容と返還、そして慰霊のため「硫黄島協会」を設立した1313硫黄島協会前掲1978、pp.7-9。

遺骨同様に観音像にも敬意がはらわれることはなかった。硫黄島でアメリカ軍からの下請け工事を行っていた西松建設の関係者が、南観音の《平和観音》が設置直後に盗難されているのを発見した。和智は関係者に新たな《平和観音》を託したが、この像も盗難にあい、3度目は観音像を固定し盗難防止の金網をはった。しかし金網ごと射撃の的として破壊され、その後、厨子ごと盗難された1414日本返還後の1977年に南観音は完全に復元された(硫黄島協会前掲1978、pp.11-15)。。戦後になってもアメリカ兵の日本に対する感情は決して良いものではなく、日本兵の遺骨や観音像が粗末に扱われていた。

1955年頃、北観音に安置された《聖観音菩薩坐像》も、射撃の的にされ両腕が破損しているのが発見された。和智はアメリカ大使館に赴き、ザヘーレン参事官に対して度重なる観音像破壊について抗議した。この際にザヘーレンから「アメリカ側で善処するので任せて欲しい」という返答があった1515硫黄島協会前掲1978、pp.37-41。

1958年、和智が硫黄島を訪れると破壊された北観音の台座に、アメリカが用意した新しい像が安置されていた。和智はこの像を「得体の知れない像」と呼んでいるように、一般的な仏像とは異なる造形をしている。像容は巻子を持つ白衣観音坐像であるが、化仏や宝冠装飾がないため観音像というよりも、ローブを被った人物像といった雰囲気である。さらに欧米における東アジア人のステレオタイプとも言うべき、つり目でエラのはった顔つきは、仏像のイメージとは異なるものとなっている。この像の制作者は分かっていないが、アメリカ側で仏像制作の経験がない彫刻家に制作依頼をしたのであろう。いずれにしても限られた情報の中で作られた、アメリカによる「善処」の観音像であった。

一方で、破壊された《聖観音菩薩坐像》は返送され護国寺の忠霊堂に安置されていた。1977年、伊東石材の伊東三郎によって修復された《聖観音菩薩坐像》は、硫黄島協会によって元の厨子に戻され再び開眼供養が行われた。すでに硫黄島は日本へ返還されており、これ以降、観音像が破壊されることはなかった。

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