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現代の「マリア観音」と戦争死者慰霊

―硫黄島、レイテ島、グアム島、サイパン島の事例から―

君島彩子氏
3章 グアム島の《マリヤ観音》

現在は多くの日本人観光客が訪れるグアム島は、戦跡を埋め立てリゾート開発が行われた。1982年、グアム島では数少ない慰霊施設である平和寺に《マリヤ観音》は安置された。平和寺は1969年に完成した「南太平洋戦没者慰霊公苑(South Pacific Memorial Park)」の発展上にあるため、本章では公苑の造成経緯から論じる。

3.1 南太平洋戦没者慰霊公苑の形成

長さ約50kmほどのグアム島は、アメリカ合衆国の準州である。古代からチャモロ人が住む島であり、スペインの植民地を経て、アメリカの植民地下におかれた。1941年12月、日本軍がアメリカ軍を放逐し、島名を「大宮島」と改名、2年7ヶ月にわたり日本領土とした。

1944年7月、アメリカ陸軍と海兵隊が上陸し激しい戦闘が開始された。最終的にグアム島北部の又木山で指揮官が自害し、日本軍の組織的な抵抗は停止した。さらに日本側の戦争死者の半数以上が戦闘終了後にアメリカ軍と地元民兵によって殺された。戦後のグアムはアメリカ軍の太平洋戦略上重要な基地となり、1962年になりようやく島が一般開放されると、「Guam Tourist Commission」が設立され、観光開発が開始された。

1965年7月、日本遺族会と日本仏教文化協会の共催で、参議院議員植木光教を団長とする「南太平洋戦没者慰霊団」がグアム島を訪れた。この慰霊団には遺族だけでなく慰霊祭を行うため多くの宗教者が同行していた3030植木光教1965「緑の島サイパンに玉砕兵士を弔う」『あそか』(55)、pp6-10。。慰霊団をグアムで出迎えたのがカトリック神父、オスカー・カルボである。キース・L・カマチョによれば、カルボはグアムの先住民チャモロ人の神父として著名な人物で、現地では精神的指導者であった3131キース・L・カマチョ著2011、畠山望訳「マリアナ諸島で大戦を記念する日本人」矢口祐人・森茂岳雄・中山京子編『真珠湾を語る――歴史・記憶・教育』東京大学出版会、p.106。キース・L・カマチョ2016、西村明・町泰樹訳、『戦禍を記念する――グアム・サイパンの歴史と記憶』岩波書店、p.164。

慰霊団の帰国から数カ月後、カルボは来日した。グアム島内に放置されている戦争死者の遺骨収集や慰霊公苑を計画し、日本の各界に協力を要請した。カルボは、日本統治時代に日本軍によって斬首されたデュナス神父の同僚であったにもかかわらず、終戦直後から日本人のお墓を作りたいと考えていた3232『読売新聞(夕刊)』(1986年6月7日)。。カルボはジョンソン大統領にも手紙を書き、アメリカ側の協力を取り付け、日米合同で日本人戦争死者の慰霊公苑を建設することになった。カルボ、植木のほか、厳谷勝雄(浄土宗、祐天寺住職)、高橋隆天(真言宗智山派、平間寺貫首)が中心となり、慰霊公苑の整備を行う日米合同の法人「南太平洋戦没者慰霊協会(South Pacific Memorial Association)」を設立、1966年7月から仏教者とカトリック神父による合同の慰霊祭が開始された。

慰霊協会は、かつて又木山と呼ばれたジーゴの土地を買い取り、「南太平洋戦没者慰霊公苑」の計画を進めた。しかし大宮島時代の支配もあり、現地の人々の日本軍に対するイメージは決して良いものではなかった。カルボは「死者を平等に扱わなければならない」という言葉を住民に伝え、慰霊公苑をつくる説得を行った3333『読売新聞』(1968年12月14日)。。公苑の整備は進み、公苑中央に遺骨を納める慰霊塔を建立することが決定した。

当初、慰霊塔は日本人だけでなく、アメリカ人の戦争死者も慰霊し、両国の協調を願うため「合掌」と「十字」を象徴する塔の前に、日米の子供が手をつなぐ像を設置する予定であった3434カマチョ前掲2016、pp.145-146。。しかしグアムは敵に占領され唯一の有人のアメリカ領土であることから、アメリカ本土の退役軍人から反対運動が起きた。当初、慰霊公苑内には日本庭園や売店を完備することで、日本人の慰霊観光の中心となる予定であったが、計画は変更され、抽象的な合掌形の慰霊塔が中心に立つ静かな公苑が完成した3535山口誠2007『グアムと日本人――戦争を埋め立てた楽園』岩波書店、pp.72-74。

1969年4月、慰霊塔の上棟式が行われた。塔内にはグアム島内で収集された日本兵の遺骨と《平和観音》が納められた。この像は、戦争死者慰霊と平和祈念のため《平和観音》を国内外に贈る活動を行っていた山崎良順(天台真盛宗僧侶)が持参したものである。山崎は昭和天皇の義弟にあたる東伏見慈洽(青蓮院門主)から「この観音像をサイパンあたりに祀り太平洋の日米戦没者を弔って欲しい」と要望されたことをきっかけに、グアム島へ《平和観音》を奉安した3636君島彩子2016「「平和の象徴」としての観音像――山崎良順による平和観音像の寄贈活動の事例から」『佛教文化学会紀要』25号、pp.77-91。

現在《平和観音》の姿を見ることは出来ないが、彫刻家の矢崎虎夫が制作した観音像は、慈母観音の下に2人の子供が立ちあがろうとする造形で「平和」を象徴しており、当初の計画にあった2人の子供の姿は異なる形で実現したとも言えるだろう。

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