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第15回「涙骨賞」受賞論文 奨励賞

葦津珍彦の思想について

―戦後における天皇論・神道論を中心に―

今西宏之氏
いまにし・ひろゆき氏=1987年、京都府生まれ。2011年、佛教大文学部人文学科卒。14年、同大大学院文学研究科仏教文化専攻修士課程修了。大学院では『日本霊異記』や『今昔物語集』などの仏教説話集から日本古代・中世における死生観の変容を研究。18年4月から法藏館非正規職員。
はしがき

平成28年(2016年)8月8日、明仁天皇によるビデオメッセージ「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」が公開された。象徴天皇としての役割を果しながらも、老齢により、その勤めが十分に果せなくなったことを踏まえて、生前退位の意向を表明した。このメッセージを受けて、政府は「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」を設置。結果、明仁天皇の退位に関する「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が公布され、2019年4月30日に天皇が退位し、5月1日に皇太子徳仁親王が即位し、新元号への改元がなされることが決定された。

この「おことば」は多方面に大きな衝撃を与え、アカデミズムから批評界に至るまで多くの「天皇論」が世に出された。筆者はその全てに目を通したわけではないが、立場の差はあれ、明仁天皇の行ってきたいわゆる「平成流」の象徴天皇のあり方(ここでは膝をつき、被災者や傷ついた人びとを励まし、国民の安心と世界の平和を祈るあり方、と簡単に定義しておく)についてはおおむね好意的な反応が多かったと記憶している。また国民の側も天皇に関しては過半が好意的な見方をしている11NHK 第9回「日本人の意識」調査 https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/yoron/social/pdf/140520.pdf

一方で、ここ数年ジャーナリズムを中心に、保守系団体「日本会議」およびその有力な関係団体と見なされている神社本庁や神道政治連盟が「安倍政権の黒幕」としてクローズアップされてきている。中には荒唐無稽な陰謀論も少なくないが、戦前の軍国主義と神道を親和的なものと見なすという点ではおおむね一致している。天皇に対しての広範な支持に対して、神道の元締めたる神社本庁に対してのこのような反応との乖離は一体どこから来るのだろうか。

この「天皇」と「神道」を理論面でも、運動面でも護ることに人生を捧げたのが、「神道・天皇の弁護士」を自認していた神道思想家の葦津珍彦(1909~1992)である。葦津は敗戦以前から、GHQにより神道の弾圧が行われることを予見し、早くから準備を進めていた。葦津は戦後新しく作られる神社の団体(後の神社本庁)では敢えて明確な教義を立てず、「個々の神社の独自性を尊重しつつ、全ての国民に開かれた神社の伝統に立脚した組織体としての連盟案」を提唱22佐野和史「第五章〈神社本庁・神社新報〉」『戦後の神社・神道―歴史と課題』(神社新報社 2010年2月)P187。神社本庁の組織づくりの事実上の中心人物として活動した。その存在感の大きさは「戦後の神社史に葦津珍彦がゐなかったならば、神社界のその後の歩みは今とは全く違ったものになってゐたかもしれない」33前田孝和「神社本庁草創期の群像―葦津珍彦を中心に―」『戦後の神社・神道―歴史と課題』 (神社新報社 2010年2月) P432と言われるほどのものであった。

一方で葦津は戦後ほとんど唯一の神道思想家として神道界の新聞である「神社新報」の主筆を務めながら様々な媒体にて言論活動を展開。戦後の左派言論人による天皇制廃止論に対して、理論的に真っ向から戦いを挑んだ。その論はいわゆる神がかり的な神道論・天皇論ではなく、精緻な理論をつくしたもので、その水準の高さはむしろ鶴見俊輔や竹内好といった「敵」の側から賞賛された。また葦津自身、右・左に関係ない幅広い交友関係を持ち、言論人としての度量を示した。著作も膨大な数に上り、全体的に見て理論面では低調であった戦後日本の右翼・民族派界においてはその存在感はずば抜けたものであった。鶴見は葦津を晩年まで尊敬し、「日本民族を私よりはるかに深く愛していることを感じた」44鶴見俊輔『回想の人びと』 (ちくま文庫 2006年2月)と語っている。また葦津と雑誌「思想の科学」で論争を行った思想史家の橋川文三は葦津に対して「保守派中の先鋭なポレミスト」「その天皇論は伝統的右翼者流の水準を超えたものとして注目される」と高い評価をしている55橋川文三『橋川文三著作集〈6〉日本保守主義の体験と思想・現代知識人の条件』(筑摩書房 2001年3月)

このように戦後、神道界あるいは保守論壇だけではなく、幅広い層に影響を与えた葦津であるが、その思想を研究対象としているものは少ない。近代日本思想史家の昆野伸幸による一連の論考が最近になって出されているがまだまだ葦津の思想の全体像の解明には至っていないと考える66昆野伸幸「葦津珍彦と英霊公葬運動」『カミと人と死者』(岩田書院 2015年4月)、や、昆野伸幸「日本主義の系譜―近代神道論の展開を中心に」『日本の思想 第一巻 「日本」と日本思想』(岩波書店 2013年4月)、などがあげられる。。天皇の退位が間近に迫り、日本人全体が「天皇とは何なのか」という命題を深く考える時期にさしかかっている現在、戦後の天皇・神道のあり方に多大な影響を及ぼした葦津の思想は単に右派・保守派のものとして片付けてしまうのではなく、幅広い視点から検討する価値があるものと言えるのではないだろうか。

以上のような問題意識の上に立ちつつ、本稿では、戦後の葦津のいくつかの論考を手がかりにしてその天皇論・神道論、引いては思想の全体像の一端を解明する。まず、第一章では「思想の科学」において発表された葦津の天皇論を考察し、それに対する橋川との論争も含めて検討していく。第二章では、葦津の主著でもある『国家神道とは何だったのか』を中心に、宗教学者、村上重良と、同じく宗教学者の島薗進による「国家神道」論を比較検討し、葦津の神道観を考えていく。第三章ではそれまでの論を踏まえて、葦津が戦後目指したものを考察すると共に、現在の神道界との関係性もあわせて考えていく。

本論の前に葦津がどのような経歴を持つ人物であるのか、ざっと概観しておきたい。葦津は1909年に福岡県筥崎にて葦津耕次郎の長男として生まれた。葦津家は幕末期に、福岡藩における神社祭祀を儒教の影響下から独立させようと運動し、藩から処罰をされた家系である77西矢貴文「明治期の葦津耕次郎」『神道史研究』第五十三号第二号 2005年2月。父の葦津耕次郎は民間の神道人として活動しつつ、玄洋社の頭山満と親交を結ぶなど独自の活動をしていた。葦津は青年期には共産主義思想や無政府主義思想に惹かれ、福島高等商業学校を退学させられる88葦津は「もしも私が葦津耕次郎という神道人の子という血縁がなかったとすれば「個」としての私の天性は当然にラジカルな社会主義者になっていて然るべきだと常に思う」と述べている。葦津珍彦『昭和史を生きてー神国の民の心』(葦津事務所 2007年1月)P188

その後、父の姿を見て左翼思想を棄て転向。神社建築業に従事しつつ(靖国神社の神門は葦津が建てたものである)日中戦争の拡大、日独伊三国同盟、対米開戦に反対。戦時中は東条内閣を攻撃し拘留されるなど、一貫して軍国主義体制には批判的な立場をとった。戦後は、前述の通り、神社本庁設立の中心人物となり、神道界・民族派界屈指の論客として活動していく。1992年に鎌倉市の自宅で没した。享年82歳。

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