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第15回「涙骨賞」受賞論文 奨励賞

葦津珍彦の思想について

―戦後における天皇論・神道論を中心に―

今西宏之氏
第一章 葦津の天皇論
第一節 「国民統合の象徴」における葦津の天皇論

葦津の名を特に世に広く知らしめたのは1962年4月に刊行された「思想の科学」天皇制特集号に掲載された論文「国民統合の象徴」である。論者のほとんどが天皇制に対して否定的な論を展開する中で葦津のみが天皇制擁護論を展開。その論理展開の強靭さに多くの論者が唸らされた。そしてこの論文に対する反論という形で橋川文三が「思想の科学」同年8月号に「国体論・二つの前提」を発表。さらにそれに反論する形で翌年の1月号に葦津の論文「続・国民投票の象徴」が発表される。結局この論争はこれ以降展開されなかったが、これをきっかけにして葦津と橋川は交友関係を持つこととなり、橋川の死まで文通が続けられたという。

なお、「思想の科学」天皇制特集号は、発刊直前に出版元の中央公論社が前年に起こった嶋中事件の影響を受け、「(発行することは)時期的にまずい」ということで雑誌を断裁し、しかも掲載内容を事前に公安調査庁や右翼に回覧させていた事実が発覚した(いわゆる「思想の科学事件」)。思想の科学編集部は討議の結果、中央公論社から離れ、新たに思想の科学社を設立。以後「思想の科学」は同社から発行されることになる。当該号はそのような緊張状態の下で発行されたことにも留意しておきたい。

葦津は論文「国民統合の象徴」の中でまず、「天皇制(あるいは君主制)は共和制に比して遅れた制度であり、時代が進むと同時に消滅する」という当時の一般的な論を浅はかであると断ずる。その上で、アメリカやフランス、英国の政治制度、あるいは王室の特色や歴史を詳細に検討し、その上で日本の天皇制と比較検討する、という方法論を展開していく。その中でも葦津が頁を多く割いているのは英国である。葦津は労働党党首で英国の首相を務めたクレメント・アトリーの「国王は、もっともよく知る人である」という言葉を引用する。その上で次のように記す。

王は、首相と同じくすべての情報資料の報告を受ける。ところが首相の方は、政党の総裁としては常に党の組織を固め、瞬時も油断することなく反対党と相戦ひ、行政権の執行者としては、閣僚をまとめ日常の活動に奨励せねばならない。最高の資料を受けても、静かに研究し、考へる余裕がない。これに反して王は、首相のやうな繁忙を強制されることなく、常に資料を精読し、専門家を引見して、その知見を深める。(略)ドイツの哲学者ライプニッツは、王にのみ与へられた特権の大きいことを論じて、世襲君主制の王子が通常人の水準に近い素質を持っているかぎり、いかなる学者も及ばない程度の教養人になりうるといっている。

葦津が英国王の特質を論じたのは、「共和政か君主制か」といったような単純な二元論を廃する狙いがあったからであろう。議会制民主主義が根付いた国であっても、君主は単なるロボットではなく、その膨大な時間と恵まれた環境によって、様々な問題に対して有効な知見を持つことが可能である。それを活かして時の政府に対し、有効な助言を与えることが出来る。葦津は英国王をモデルとしつつ、日本の天皇においてもそうなのだ、ということを示そうとしている。天皇も英国王と同様に、国民を統合する機能を確かに持ちえるのだ、という事を訴えている。

そして葦津が英国王の事例を引用した事実は、有名な福沢諭吉の『尊王論』『帝室論』での天皇論の影響を感じさせるものがある。福沢は『尊王論』にて

政治の争論の如きは最も劇しきものにしては由々しき大事をも見る可き場合なきにあらず。即ち一國社会は政治家の玩弄物と為りて意外の災難を被る可き時なれども、此の一大事の時に當りて能く之を調和し、又平生より微妙不思議の勢力を耀かして、無形の際に禍を未萌に預防するものは、唯帝室至尊の神聖あるのみ。(略)帝室は固より政治社外の高處に立ち、施政の得失に就ては毫も責任ある可らざるものにして、其政治の熱界を去ることいよいよ遠ければ、其尊厳神聖の徳いよいよ大なる可し。

と記しているが、天皇という存在は政治圏外にあってこそ、その本質を発揮しうるのだ、という論は前述の葦津の論と趣旨としては同じである。実際に、葦津は福沢の皇室論を評価している。しかし一方で、福沢の皇室論が日本国憲法における天皇のあり方と似ているかのように見えるがそれは誤りで、「福沢は天皇が「政治社会の圏外」に在って、しかも政治の俗熱によって分裂しようとする国民の心理を統合するために果さるべき精神的な作用の絶大なることを期待し、社会のあらゆる領域における低質の活発なる社会運動について詳述し、力説している」と評価しつつも、「しかし日本国憲法における天皇制は、福沢の思想に見られるような、積極的な社会人心への影響を期待するものではない。むしろ日本国憲法においては、ただ天皇の行為を制限し制約することに急であり、皇室財産のごときもこれを廃し、皇室が社会的事業に対して資金を提供されるようなことも、国会の同意承認なしには禁止するという条文を設けた。この憲法起草者の意図は、福沢が皇室の対社会的影響の大きくなることを期待したのに反して、あらゆる点で、皇室の対社会的影響力を抹消することに意をそそいでいるのは明らかなことである」99葦津珍彦『日本の君主制』(葦津事務所 2005年4月)とあくまで、日本国憲法に関しては反対の立場をとるのである。

おそらく葦津は福沢の天皇論はもちろんのこと、英国をはじめとした海外の政治思想や法学思想を広範に参照した上で、独自の天皇論を創っていったのであろう。

そして葦津は「国民統合の象徴」の後段で一般の日本人が天皇に対して持っている心性を、当時の皇太子の結婚に沸く日本や江戸期の伊勢参り等を引き合いに出して分析する。葦津によれば、日本人の国民心理に見られるような強い国体意識は「日本の政治が生んだものでもなく、宗教道徳が生んだものでもなく、文学芸術が生んだものでもない。それら全ての中に複雑な根をもっている」と評す。一方で「私は、古今の学者が努力して、しかも成功しなかった国体論を自ら建設しようなどという大それた野心は持たない」とあくまで国体に関する論議は避けている。葦津はここで拙劣に「国体」とは何か、という問いに結論を出そうとはしていない。そして最後に「日本の天皇制は繁栄しつづけるであろう」と結んでいる。

改めてこの「国民統合の象徴」を読むと、構成が二つに分かれていることが読み取れる。前段は広範な外国の政治思想史の知識を前提とした理性的かつ論理的な比較文化論的な天皇論である。後段は葦津のよって立つ「日本人の天皇に対する強い支持や尊敬の念」を前提とした短い国体論である。前段の理性的な文章に比して、後半はやや情緒的であり、文章そのものが短いこともあり、意図が読み取りづらい。次の節で記すが、橋川が疑問を持ったのもおそらくこの点であろう。

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