PR
購読試読
宗教と文化の専門新聞 創刊1897年
第16回「涙骨賞」を募集
PR
第16回「涙骨賞」を募集 中外日報宗教文化講座
第15回「涙骨賞」受賞論文 奨励賞

葦津珍彦の思想について

―戦後における天皇論・神道論を中心に―

今西宏之氏
第二節 橋川文三「国体論・二つの前提」について

この葦津の論文に対し、同年8月号の「思想の科学」に橋川の「国体論・二つの前提」が掲載された。橋川は葦津論文の読後感想を「一種の「穏健」なリベラリズムないし実証主義の印象をさえ与えた」と記す。その上で「氏の新しい護教論は君主制価値を比較制度論的実証の手続きによって立証し、とくにそれが日本人の社会心理的実態に対して有効な統合機能を果すであろうことを証明しようとするもの」であると評価している。しかし一方で「葦津論文が国体論の政治史的制度論を示していない」点を問題として明治以降の政治思想史の分野から葦津に批判を加えようとする。

橋川は明治政治思想史において特に伊藤博文を重要視し、憲法制定前後の伊藤の記録や談話を引用する。結論として橋川は「伊藤が自然的存在としての国体から憲法を作ろうとしたのではなく、むしろ国体の憲法をつくろうとした」「その「国体」は決して日本民族の長い生活意識と連続したものではなく、彼らの宮廷崇拝や御蔭参りの意識とは異質のものである」としている。

橋川は「国体」は近代以降、伊藤を初めとした指導者が国民統合のために作り上げた歴史の浅いものにすぎず、明治以前の日本人の心性や精神性とは分断されたものであると考えている。この橋川の論に従えば「日本民族に悠久に受け継がれてきた天皇・皇室への想い」を前提とした天皇論・国体論は無効となってしまう。

さらに橋川は植民地にとって国体がいかなる存在であったかを問うことの必要性も訴える。戦前・戦中の皇民化政策において植民地の人間が苛烈な歴史を背負わされた事実を踏まえた上で、「われわれがもし皇室ということに限ってその永続の願望を披瀝するとしても、われわれは決してなにごともなかったかのようにーあたかも山河自然のそれを語るようにーその願望をあらわしてはならないであろう」と結んでいる。戦前日本の植民地政策をすべて天皇の問題に結びつけることはかなり強引な論理ではあるが、無視しえない意見ではある。

では、葦津はこの橋川の批判にどのような反論をしたのであろうか。

第三節 葦津の応答「続・国民統合の象徴」について

翌年の「思想の科学」1月号において葦津は橋川論文に対する応答「続・国民統合の象徴」を発表している。葦津はまず「明治政府の閣内で有力なのは、保守的岩倉と進歩的大隈の二潮流」であるとし、伊藤博文については「欧化貴族主義者であり、その憲法思想といえば、すでに開設を公約された議会を少しでも無力にしようとするのに熱心なだけである」として、そもそも橋川とは前提からまったく違う明治政治思想史の見方を提示する。この根拠としては、伊藤が憲法制定時に議会の議案提出権を否認する草案を提出、あるいは天皇に対する上奏権を削除しようとした点に求めている。さらに葦津は伊藤の事跡や記録を詳細に確認した上で伊藤を「主義主張の人に非ずして、ただ局面の情勢、権勢の関係を敏感につかんで遊泳する俗物的官僚主義者にすぎない」。そのような人物である伊藤に「「国体を創出する」などというようなアムビジョンのあろうはずがない」とする。葦津はあくまで「有能な政治思想家であった伊藤博文が「国体」を新たに創造した」という橋川の史観に異を唱え、国体、あるいは天皇に対する想いが明治以前も日本人の一般意思であったということを力説するのである。

そして植民地に対する「国体」観念の影響については石原莞爾や今泉定助、前田虎雄らのアジア開放を目指した運動を紹介し、「使命感としての国体論が、異民族圧迫の論理と結びつくケースがあると同時に、異民族解放の論理と結びつくケースのあることも知らねばならない」(傍点は葦津)として一面的な「国体」論を展開する愚を戒めている。熱心なアジア主義者であった葦津耕次郎を父に持ち、その活動を身近に見てきた葦津としてはこの点は声を大にして訴えたい部分であろう。また幸徳秋水の論を引用し(少なくともアナーキストになる前の時期までは)天皇と社会主義は矛盾しないという発言を紹介している。葦津はこれらの人物の国体論を引用、検討し、対外的にも「国体」思想は多様であり、そう易々と概念規定できないということを立証している。

以上、葦津と橋川の論争を見てきたが、どこか噛み合っていない印象を受けてしまう。その理由としては、互いが依拠する天皇観・国体観、もっと言えば歴史観の相違にあると思われる。葦津は天皇にしろ、国体にしろ、「連続性」を何よりも重視する。戦前・戦後だけでなく、明治以前からの歴史を断絶のない、一つの流れとして捉えようとする。一方橋川は、断絶は断絶として受け入れ、その上で歴史を捉えていこうとする史観を有している。この両者の史観の違いが、両者のこれほどまでの明治政治思想史の捉え方の相違を生み出している原因であろう。

なお橋川はこの論争をきっかけとして、晩年まで葦津と文通による交流を続けた。また葦津の著作の一つである『武士道―戦闘者の精神―』の書評を書くなどもしている。葦津の側も橋川を「能筆の人」として高い評価を下している。

葦津の天皇論は橋川の言うとおり様々な国家・地域の政治体制を踏まえた上での比較制度論的方法論をとることが大きな特色であることは確かである。それは葦津の豊富な海外の政治史・法思想史の知見を前提としている。では葦津はいわゆる「国家神道」に関してはどのような思想を持っていたのであろうか。

  • 中外日報採用情報
  • 中外日報購読のご案内
  • 時代を生きる 宗教を語る
  • 自費出版のご案内
  • 紙面保存版
  • エンディングへの備え― 新しい仏事 ―
  • 新規購読紹介キャンペーン
  • 中外日報お問い合わせ
中外日報社Twitter 中外日報社Facebook
このエントリーをはてなブックマークに追加