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宗教と文化の専門新聞 創刊1897年
第16回「涙骨賞」を募集
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第16回「涙骨賞」を募集 中外日報宗教文化講座
第15回「涙骨賞」受賞論文 奨励賞

葦津珍彦の思想について

―戦後における天皇論・神道論を中心に―

今西宏之氏

そして、明治新政府の宗教政策が形作られる過程の中で、最大のキーマンとして真宗僧の島地黙雷の存在をクローズアップしていく。島地は長州出身であり、木戸孝允ら大物とも親しくしていた。さらに西本願寺は幕末期に新撰組らから長州の志士をかくまうなど、親密な協力体制を築いていた事や、もともと戦国期から毛利家は真宗の勢力が強かった事等を指摘。そしてその後の日本の宗教政策に決定的な影響を及ぼした島地の献策「教導職治教、宗教混同改正ニツキ」の文章を解読していく。葦津は以下の文言に注目する

抑神道ノ事ニ於テハ、臣未タ之ヲ悉クスル能ハスト云へドモ、決シテ所謂宗教タル者ニ非ザルヲ知ル。(中略)朝廷百般ノ制度、法令、皆悉ク惟神の道ニ非ルハナシ。(中略)決シテ宗教ノ事ニ非サルヘシ。然ルニ神道者流之ヲ曲解シ、自家ノ説ヲ主張シ他説を圧伏セントス。

「神道は宗教ではなく、皇室の治教である」。島地のこの論を葦津は以下のように解している。「この島地の「神道は皇室の治教にして、宗教に非ざるなり」との論は、その後の日本の宗教政策、神道政策に決定的な影響と混乱を生ずる発端となる。(中略)皇室の神礼典を宗教と認めれば、日本帝国の将来は、かれが見てきた英国以下のヨーロッパの君主制国家のように神道国教制への道をとる懸念が大きい。かれは、その点では一語として言及しないで、皇室の神道、惟神の道を宗教に非ずと断定して、それと国民との間に現存する諸流派の神社および神社への国民の神道信仰とを全く無縁のものとして分断し切断する強引な論理を立てる。皇室の神道は政令、治教であり「一民も之に背戻するを許さざる」権威を有するものとする。(中略)しかし、それといわゆる民間人の廃仏的神道説とは全く無縁没交渉のものとして切断する。これを分断すれば恐れるに足らない」1818同右 p39~P40

葦津はこの島地の「神道非宗教論」を「いわゆる後の「国家神道」「神社非宗教」の発端となるロジック」「その最初の有力な提唱者が、真宗の島地黙雷であるという事実、およびそのロジックの意図するところが、宗教的神道を封殺するための仏教徒の対神道政略であったという事実」を最重要視している1919同右 P41。この事実をふまえて葦津は戦前の神道史を叙述していくのである。

葦津の「国家神道」研究の最大の功績は「神道非宗教論」つまりは「国家神道」なるものが、真宗の対神道政策がそもそもの原因であった、と立証した点であろう。また葦津は戦前の神道勢力は金銭的にも政治的にもつねに傍流であり、「無気力で無能」なものにすぎなかった、と結論している。

本書における葦津の方法論は実際の行政の現場で何が行われていたか、を実証的に示していく点に特徴がある。ロジカルであり、説得力もあるが、反面「思想」として「国家神道」を捉えようとした場合には、そのカバーする範囲が狭くなってしまっている印象も受ける。その点が村上の「国家神道」観と嚙み合わない理由であるのかもしれない。

第四節 島薗進の「国家神道」論

2010年に出版された、宗教学者、島薗進の『国家神道と日本人』は発売後に思想史学者の子安宣邦の批判を受け、激烈な論争になった書である。基本的には村上、葦津の論の批判を行いつつ、島薗独自の「国家神道」史を叙述していくというスタイルをとっている。

島薗は村上に対しては「上から国民に強制された側面があるとともに、国民自身が担い手となった側面もあった」とし、当時の民衆が草の根でどのような宗教活動をおこなっていたかの実例を示す2020島薗進『国家神道と日本人』(岩波書店 2010年7月)p93など、「国家権力と民衆」という単純な二項対立を退けている。一方で葦津に対しては、その制度史的な見方に疑問を呈し、「神道史や宗教史を広く見渡し、神道に関わる思想や活動の存在形態を捉えようとする可能性を排除する」として方法論そのものに疑問を呈する。さらに「「葦津は皇室祭祀がどのように大きな影響力を及ぼしたかについてはまったく触れない」とも批判している2121同右 P87

では島薗の考える「国家神道」とはどのようなものなのか。その答えは明確には示されないが、最終章で驚くべき見解を発表する。「皇室祭祀」と「神社本庁などの民間団体を担い手とする天皇崇拝運動」を取り上げ、「これらに支えられつつ、国家神道は戦後も存続し続けて今日に至っている」との結論を導き出すのである2222同右 P185

島薗がこのような論を発表した意図は少しわかりかねるが、少なくとも「皇室祭祀」が「国家神道」に不可欠な存在であるという認識は持っているようである。

村上、葦津、島薗のそれぞれの「国家神道」観をそれぞれ著作から分析すると、今更ながらに驚かされるのが、凄まじいまでの「国家神道」観のすれ違いである。その理由は、イデオロギーの問題もさることながら、どのような方法論を持って臨むのか、あるいはどこからどこまでを「国家神道」の範囲とするのか、が論者によってまったく違ってくるからであると思われる。そして「国家神道」が現在も存続しているか否かはともかくとして、「神道」「皇室」は現在も自明のものとして存在しており、「国家神道」を考えることは、そのまま「現在」を考えるということに直結するからでもあろう。ここにこそ「国家神道」問題の核がある。

葦津は『国家神道とはなんだったのか』の最後にこんな一文を残している。「神道が神道であるかぎりは日本人という民族(ネイション)との結びつきは決して消えることはない。それは将来、戦前の国家神道的な道徳儀礼のみのものとしての線を、さらに進めていくとすれば、帝国政府なき時代においては、道徳儀礼というよりも、むしろただの民族芸能文化としての道をたどるかもしれない。あるいは江戸時代の知識人から軽蔑された、巫祝の徒の現世利益的な、あまり高級でない民族宗教に転落するかもしれない。それは何れも好ましからざるとして、より高い日本民族特有の理想精神を求める道も勿論あり得るはずである。しかし本文は、将来を論ずるのでなくして、その前提として、過去の「国家神道とは何だったか」との史論に止める」2323葦津 P170

結局、葦津は未来のあるべき神道の姿を提示してはいない。では葦津の目指した天皇、あるいは神道の姿とはどのような形のものだったのであろうか。

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