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第16回「涙骨賞」受賞論文 本賞

近代日本における「明治維新」と仏教

―「勤王僧」月性の贈位をめぐって―

髙橋秀慧氏

2 月性の生涯と没後の顕彰

(1)僧月性の顕彰に関する先行研究

戦前における月性の顕彰過程は、戦後において教育史家である海原徹氏の研究1717海原徹2005『月性 人間到る処青山有り』ミネルヴァ書房。などで一部触れられており、本論でも参照したが、これまでまとまった形では研究がなされていない。最も参考になるものとしては、戦後、妙円寺住職であった立泉昭雄氏がまとめた「贈正四位月性上人年譜」1818立泉昭雄「贈正四位月性上人年譜」三坂圭治編1979『維新の先覚 月性の研究』月性顕彰会、p.37。(以下「年譜」という。)がある。但し、年譜の名のとおり年表形式で出来事が時系列に列挙されているのみであり、事実関係が不明な点も多い。また本論の視角からすれば、顕彰活動の内容やタイミングがどのような歴史的背景と関連し、意義を持ったのかについても明らかでない。そのため、以下この年譜を参考にしながら、筆者が収集した資史料や、先行研究を参照して、顕彰過程の具体相を可能な限り明らかにしたい。

(2)月性の生涯について

本論に入る前に、僧月性について、今一度その生涯や事蹟を概観する1919月性の生涯については、前掲註17海原書、三坂圭治編1979『維新の先覚 月性の研究』月性顕彰会、上田純子2016「儒学と真宗説法―僧月性と幕末の公論空間」塩出浩之編『公論と交際の東アジア近代』東京大学出版会、pp.53-78、岩田真美2018「幕末護法論と儒学ネットワーク」岩田真美、桐原健真編『カミとホトケの幕末維新』法蔵館、pp.139-161を参照。。月性(字・知円、号・清狂)<1817(文化14)年―1858(安政5)年>は、周防国大島郡遠崎村(現在の山口県柳井市)にある、本願寺派妙円寺の僧である。15歳の時に豊前の蔵春園に入門して恒遠醒窓に漢学を学んだのを皮切りに、諸国を遊学し、佐賀、長崎、広島など諸国を遍歴して真宗学や漢学を修め、見識を深めた。1843(天保14)年、27歳の月性が旅立ちに際し詠んだ「男児立志出郷関、学若無成不復還、埋骨何期墳墓地、人間到処有青山」の詩は広く知られている。大坂では、叔父龍護の寺院を拠点として、漢学塾として隆盛していた梅花社に入門する。月性の生涯のうち、在坂期は津藩の儒者斎藤拙堂や、真宗僧超然と知己を得、梅花社でも梁川星巌や梅田雲浜ら著名な尊王家・儒者と交わるなど、後の活動につながる知的・人的ネットワークの形成期として大きな意味をもった。

また郷里の長州では、1848(嘉永元)年に妙円寺内に時習館(清狂草堂)を開塾して、赤禰武人、世良修蔵、大洲鉄然ら、後に幕末の政治運動に身を投じていく若者を多く指導した。こうした人材輩出の実績から、後年時習館は萩の松下村塾と並び称されることになる。また、嚶鳴社という長州藩士のエリート達による学習グループとも交流を持つが、嚶鳴社には吉田松陰の兄杉梅太郎や、周布政之助など幕末の長州藩を牽引する人材が多く集っており、月性の活動にも大きな影響を与えた。月性はこうした人的ネットワークや知見を駆使して長州藩内において海防や鉄砲献納の説法をしてまわったため、「海防僧」と称された。そして1856(安政3)年には、超然の推挙により西本願寺に招かれる。月性は宗主広如に『護法意見封事』を示して、外圧や排仏論に対抗するため、キリスト教の防波堤としての仏教、すなわち護法が重要であり、こうした護法の実践が護国の実践となることを説いた。一方この『護法意見封事』には、教団の現状を批判し、人材登用や倹約などの改革を促す主張も含んでいたが、『仏法護国論』として頒布された際には改革に関する部分は削除された2020岩田真美2011「幕末期西本願寺と『仏法護国論』をめぐって―月性「護法意見封事」との相違について」『仏教史学研究』53(2)、pp.41-61。。そしてこの『仏法護国論』は、広如が1863(文久3)年に門徒に向けて発した「勤王の直諭(直命)」と並び、戦前から現代に至るまで、幕末維新期における西本願寺の代表的な「勤王」行動としてしばしば言及されてきた。このことは、本願寺派自身の明治維新観や近代以降の本願寺派教団の自己認識に深く関わる問題でもあり、戦前において宗派が月性を勤王僧として讃えていくことも、こうした教団側の歴史認識と深く関連すると筆者は考えるが、この点は追って考察する。

さて月性は、遊学で得た知見や人脈そしてその才能を発揮して、一介の在地僧侶から、本山御用のブレーン僧として華々しい活躍を見せはじめたが、その矢先1858(安政5)年に急病により郷里で没した。

(3)月性没後から明治初年までの追弔

月性の死後、身近な人々を中心として、すぐに追悼の動きが見られる。例えば、月性死去の翌年に処刑された吉田松陰は、遺書である『留魂録』に「清狂の護国論及び吟稿、口羽の詩稿、天下同志の士に寄示したし」と書き残し、松下村塾の門弟によって月性の『護国論』と『清狂吟稿』が出版されることを希望していた。いずれも松下村塾において出版計画が進められたものの、時代的な制約があったようで、前者の実現は定かでなく、後者は頓挫した2121蔵本朋依2001「松下村塾の出版活動」『国語国文』70(12)、pp.31-49。。また長州藩士の土屋蕭海により、『浮屠清狂伝』も同年に著述されている。その後、三回忌に当たる1860(万延元)年には、4月1日から10日間にわたり、盛大な法要が開催された。この年、生前月性が残した借財の整理などが話し合われた。

明治維新を迎え、1869(明治2)年には、松下村塾版として『清狂詩鈔』が出版される。本書は、月性作の漢詩についての松陰の評と、松陰が月性に宛てた「送清狂師帰郷序」などの詩文、先述の『浮屠清狂伝』などから構成される、月性追弔の意を含んだ詩文集である。没後すぐに頓挫した『清狂吟稿』の出版計画が、憚らず行えるようになった結果であろう。そして年譜によれば、この後も十三回忌、十七回忌、二十五回忌と継続して年忌法要が行われていた。

一方で国家による維新功労者の事蹟調査もなされていき、ここに月性の名も見られる。早い例としては、1870(明治3)年12月に、「益田右衛門介、福原越後、国司信濃、清水清太郎、長井雅楽、吉田寅次郎、宍戸左馬介、周布政之助、毛利登人、村田四郎左衛門、高杉晋作、来島又兵衛(中略)僧月性、妙安寺玄堂事蹟取調を士族支配署社寺改正署に命ず。朝廷より此諸人に関する事蹟を十二月を限り差出すべきの命ありしを以てなり」2222末松謙澄1921『防長回天史』第6篇下、p.368。以下史料の引用に際し、句読点及び下線は筆者加筆、片仮名は平仮名に改め、旧仮名遣い及び旧字体は現代仮名遣い及び新字体に改めた。との指示が出されている。月性は僧侶の身分でありながら、明治初期にはすでに、幕末の長州藩を代表する諸士とともに、事蹟取調の対象者として名を連ねていた。

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