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第16回「涙骨賞」受賞論文 本賞

近代日本における「明治維新」と仏教

―「勤王僧」月性の贈位をめぐって―

髙橋秀慧氏

4 おわりに

最後に、山口県域における明治維新観に少し立ち入った上で、まとめに入りたい。山口県は言わずと知れた長州藩のお膝元として、維新回天の原動力となった志士を多く輩出し、吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作など今なお英雄として語り継がれる人物も少なくない。ところがその山口県には、「周防人不遇説」4444内田伸1982「長州藩の異端児―赤根(ママ)武人」『歴史読本』(26-5)新人物往来社、pp.124-125。なる俗説がある。これは吉田松陰が指導した萩松下村塾のメンバーに比べて、月性が周防時習館で指導した世良修蔵、赤禰武人、大楽源太郎などがいずれも悲運の死を遂げ、維新後の出世や歴史上の扱いに大きな差があることを指すものである。周防人不遇説は、単に偶然に起因する俗説ではなく、それなりの根拠がある。「不遇」の代表的な人物である赤禰武人は、月性に師事した後、阿月の克己堂や短期間ではあるが萩松下村塾で学び、その後上洛して梅田雲浜に師事した。安政の大獄では梅田に連座し、月性没後はその借財の整理に奔走するなど、月性と密接な関係にあった弟子である。彼はその後、奇兵隊の総督を務めるなど萩でも出世したが、長州征討への対応を巡る内部抗争で高杉晋作らいわゆる「正義派」と対立し、最後は反逆者として処刑された。そのため、明治維新後の度重なる贈位請願や合祀も阻まれてきた4545田中彰1980『明治維新の勝者と敗者』NHKブックス。赤禰武人の贈位請願が認められなかった背景には、山県有朋の存在があったとされ、現存する『奇兵隊日記』の欠落部分には赤禰武人の功績が記されていたともいわれる。山県没後も請願は続けられるが、結局贈位が実現されることはなかった。悲運の志士である。

こうした月性門下生の不遇は、大洲鉄然も永らく悔やんでいたようであり、月性追慕のため認めたとされる手紙4646大元玄一1944『勤王僧大洲鉄然』久賀町翼賛壮年団、p.57。には「惜哉第一の門人世良修蔵、維新奥州征伐の時、福島にて殺され、赤禰武人、大楽源太郎は中途にて皆死し、無学無識、老生等耳残り師徳を顕はす不能、泣涕慚愧のみ御憐察云々」とその心境を吐露するに至っている。そしてかくいう大洲鉄然自身もまた、自身や周防の僧侶たちが、幕末に武装して幕府軍と戦った功績が維新後正当に評価されていないことに不満を漏らしていた4747児玉識1976『近世真宗の展開過程』吉川弘文館、pp.289-292。

月性の追弔は、三十三回忌を節目とする清狂草堂の建立や『清狂遺稿』の出版、詩歌の募集、有栖川宮熾仁親王や伊藤博文といった政府要人の墓参、さらには贈位によって、多様な人々が参加する一大顕彰事業となった。そしてここに月性の「勤王僧」としての評価が確固たるものになった。

また、明治維新の正史では勝者に位置づけられる長州藩においても、藩内の内部抗争に敗れた人間は維新以後も評価されることはなく、同郷の権力者によって死後の顕彰が阻まれる事態も生じていた。こうした中で周防出身の月性が贈位を受けたことは、郷里の人々にとってひとしおの感慨があったに違いない。そして、大洲や島地ら、維新後に本山へ進出し、教団改革を主導した防長出身の僧侶たちも、師である月性の顕彰を通じて、防長出身僧侶が明治維新や教団改革に果たした役割や意義を再確認しただろう。また、本願寺派教団も、近代以降、教団が幕末維新期に果たした「勤王」を正史として主張する根拠の一つとして月性の存在は大きく、贈位後に院号の授与など独自の褒賞を行って、その後も折に触れ丁重に追弔した。

以上、月性の顕彰を通じて、郷土周防の人々、防長出身僧侶、本願寺派教団と多様な立脚点に基づく各々の明治維新観を垣間見てきた。そこには、「明治維新」をめぐる多様な思いがあったが、いずれも「勤王」の功績の濃淡を価値基準としていたため、近代天皇制のイデオロギーに回収されていく側面があったことに注意しなければならない。そして、「勤王僧」のイメージや評価は他の地域やグループに拡大・定着していき、最終的には冒頭で述べた昭和の戦争に至るのである。

本論では明治期における月性の顕彰を中心に論じたが、未だ言及できていない論点もあり、大正期以降、戦時下にいたるまで、月性や防長出身の勤王僧が地域社会や本願寺派教団によってどのように語られていくのかについても触れることができなかった。これについては他日を期したい。

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