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宗教と文化の専門新聞 創刊1897年
第16回涙骨賞〈選考委員選評〉
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第16回「涙骨賞」受賞論文 奨励賞
 おおかわ・だいち氏=1990年生まれ。山口県出身。同志社大神学部卒業、立教大大学院キリスト教学研究科博士課程前期課程修了、現在、同後期課程在学中。専門は新約聖書学。論文に「パウロにおける『自己スティグマ化』の戦略」(日本新約学会編『青野太潮先生献呈論文集 イエスから初期キリスト教へ』リトン、2019年収録)など。

キリストを着る

―原始キリスト教の洗礼における衣服・ジェンダー・権力―*

大川大地氏
*本稿は、日本キリスト教団羽生教会での礼拝における筆者の発題(2019年6月23日)を、大幅に改めて論文のかたちにしたものである。発題に対して貴重な意見を下さった、星山京子、小田原緑、田村信征の各氏に深く感謝する。なお、新約聖書学の専門誌への応募ではないことに鑑みて、二次文献との折衝は限定的なものに留める。
原始キリスト教においては一人の新しい人という夢が生きていた。……この夢はもちろんただ単に夢見られただけでなく、儀礼的に演出されたのである11P. v. Gemünden, “Die urchristliche Taufe und der Umgang mit den Affekten: Zur Ritualisierung von Affektkontrolle im Urchristentum,” in eadem., Affekt und Glaube: Studien zur Historischen Psychologie des Frühjudentums und Urchristentums, NTOA 73 (Göttingen: Vandenhoeck und Ruprecht, 2009, 226-247), 226. 傍点は引用者、原文のイタリックによるそれは省略した。
――ペトラ・フォン・ゲミュンデン

はじめに
実際、キリストへと洗礼を受けたあなた達はみな、キリストを着たのである。〔そのあなた達には、もはや〕ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女はない。まさにあなた達はみな、キリスト・イエスにおいて一人なのだから。

上に私訳で引用した新約聖書のガラテヤ書3章27-28節は、「差別・抑圧に痛みや憤りを感じそのような状況に抵抗して生きようとする人々にとって、大きな支え・励ましになってきた」22山口里子『虹は私たちの間に――性と聖の正義に向けて』新教出版社、2008年、290頁。と言われる聖書箇所である。実際に、民族(ユダヤ人/ギリシャ人)、身分(奴隷/自由人)のみならず、性別(男/女)の二分法が深く浸透していた古代地中海社会の社会構造および人々の価値観を考えるとき33たとえば、ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシャ哲学者列伝』1.33を参照。そこには次のようにある。「フォルトゥーナーに対して感謝すべきことが3つある。1つは、私が獣ではなく人間として生まれたこと。1つは、私が女ではなく、男として生まれたこと。1つは、私が野蛮人ではなくギリシャ人として生まれたこと」。、それらの二分法の克服が明言されているのであるから、フェミニストの聖書学者が、「聖書に見いだせる女性の平等についての最も明快な叙述」44S・ブリッグス「ガラテヤの信徒への手紙」(大嶋果織訳、E・S・フィオレンツァ〔編〕『聖典の探索へ――フェミニスト聖書注解』〔絹川久子・山口里子監修〕、日本キリスト教団出版局、2002年、173-186頁)、173頁。とこの個所を評価するのも頷ける。

上記の聖書箇所は、新約聖書学の領域では一般に「洗礼伝承」ないし「洗礼定式」と呼ばれている(直前のガラテヤ書3章26節をもこれに含めるかどうかには意見の相違がある)。すなわち、このテクストはガラテヤ書を著したパウロのオリジナルの文章ではなく、彼が原始キリスト教(紀元1世紀末までのキリスト教)の伝承ないし定式から引用したものである。このことは、文脈が全く異なるにもかかわらず、新約聖書の第1コリント書12章13節およびコロサイ書3章9-11節にほぼ同趣旨の発言があらわれること、ガラテヤ書においては文脈上パウロに問題にされているのは「ユダヤ人とギリシャ人」の区別のみであり、奴隷/自由人、男/女についての発言が文脈から乖離していること、この2点から明らかである55ガラテヤ書3章[26]27-28節が原始キリスト教の伝承ないし定式に属することについて、以下の論考を参照。H. D. Betz, Galatians, Hermeneia (Philadelphia: Fortress Press, 1979), 181-185; D. R. MacDonald, There is no Male and Female: The Fate of a Dominical Saying in Paul and Gnosticism (Philadelphia: Fortress Press, 1987), 5-14; W. A. Meeks, “The Image of the Androgyne: Some Use of a Symbol in Earliest Christianity,” (History of Religions 13, 1974, 165-208), 180-182; D. J. Moo, Galatians, BECNT (Grand Rapids: Baker Academic, 2013), 252-255; E・S・フィオレンツァ『彼女を記念して――フェミニスト神学によるキリスト教起源の再構築』(山口里子訳)、日本キリスト教団出版局、1990年、305-306頁; 荒井献『新約聖書の女性観』(岩波セミナーブックス27)、岩波書店、1988年、219-220頁; 山内眞『ガラテア人への手紙』日本キリスト教団出版局、2002年、564-569頁。浅野淳博は、該当箇所が「前パウロ伝承かパウロに起因するかは不明」(浅野『ガラテヤ書簡』〔NTJ新約聖書注解〕、日本キリスト教団出版局、2017年、310頁)とする。。これらの聖書箇所の背後にある伝承ないし定式の「座」(Sitz)は、明らかにパウロ以前ないし同時代の原始キリスト教の洗礼式にあり66原始キリスト教および新約聖書における洗礼についての最近の概説として、M. Öhler, “Neues Testament,” in idem. (ed.), Taufe, Tdt 5 (Tübingen: Mohr Siebeck, 2012), 39-82を参照。、「ユダヤ人とギリシャ人」という二分法が問題になっている点から、おそらくパレスチナ外部の民族的「混成教会」に由来するであろう77フィオレンツァ『彼女を記念して』、305頁参照。。主語が二人称複数(あなた達)であることから、授洗者(洗礼を授ける者)が、受洗者(洗礼を受ける者)に宣言した言葉の定式であったと思われる88Betz, Galatians, 185を参照。。その際、第1コリント書12章13節およびコロサイ書3章9-11節には「男と女」についての言及が欠けているが、これをパウロがガラテヤ書で付け加えたと見なすべき理由がないので、洗礼定式の原初的な形態は、上に引用したガラテヤ書3章27-28節に最もよく反映していると考えられる99A・C・ワイヤ『パウロとコリントの女性預言者たち――パウロの修辞を通して再構築する』(絹川久子訳)、日本キリスト教団出版局、1991年、260-261頁; 絹川久子「『洗礼告白』とパウロの女性観」(倉松功ほか〔編〕『知と信と大学――古屋安雄古稀記念論文集』ヨルダン社、1996年、394-435頁)、402頁; 山内『ガラテア人』、567-569頁を参照。

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