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宗教と文化の専門新聞 創刊1897年
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第16回「涙骨賞」受賞論文 奨励賞

キリストを着る

―原始キリスト教の洗礼における衣服・ジェンダー・権力―

大川大地氏
ガラテヤ書のテクストに語られた「男と女」(ἄρσεν καὶ θῆλυ〔アルセン・カイ・テーリュ〕)という言葉には、通常は生物学的性別(セックス)を指すのに用いられるギリシャ語が使われている(旧約聖書の創世記LXX1章27節を参照。「〔神は〕彼らを男と女に創造したἄρσεν καὶ θῆλυ ἐποίησεν αὐτούς〔アルセン・カイ・テーリュ・エポイエーセン・アウトゥース〕」)。このことから、該当箇所を、人間が「男と女」に創造される以前の「原人」、両性具有的存在への復帰を目指す発言とする解釈もある1010とくに、Betz, Galatians, 200; MacDonald, no Male and Female, 63; Meeks, “The Image of the Androgyne,” 135ff.。しかしながら、A・C・ワイヤが適切に述べているように、テクストが「男と女はない」を「ユダヤ人もギリシャ人もない」、「奴隷も自由人もない」に重ねて用いていることは明白であり、この表現は「社会全体を二分し、ひとつのグループを犠牲にして他のグループを特権扱いする差別を……克服することを意味している」と考えられる1111ワイヤ『女性預言者たち』、263頁。フィオレンツァ『彼女を記念して』、309-310頁も参照。その際、v. Gemündenの言うように、ガラテヤ書3章28節における、「~も~もない」(οὐκ……οὐδὲ……)から「~と~はない」(οὐκ……καὶ……)への変化は、意図的に文体に変化を与えるためのものか、創世記1章27節の暗示だと考えられる(v. Gemünden, “Die emotionale Frau und der vernünftige Mann? Die Affekte und der Logos in ihrer Zuordnung zu den Geschlechtern in der Antike: Ein Kapital Historischer Psychologie,” in eadem., op. cit., 138-159, here 158)。。その際、テクストが創世記を暗示しつつ期待しているのは、「『男と女』に創られたという創造秩序を根拠としながら歪められてきた関係性――家父長的秩序――が、キリストによって本来の姿に回復されること」1212浅野『ガラテヤ書簡』、314頁。であろう。つまり、ここで実質的に問題とされているのは社会的に形成される「性的役割分担の止揚(die Aufhebung der Geschlechterrollen)」である1313v. Gemünden, “Die emotionale Frau,” 158.。従って本稿が以下「性別の二分法の克服」という時、それは二分法的な生物学的性別に基づいて社会的に形成される役割分担、すなわちジェンダーに基づく差別の克服を意味する。

この定式の果たした社会的機能は、W・ミークスの次の言葉に良く表現されている。

初期の小さなキリスト教という細胞のひとつに飛び込んでメンバーになったアシア州の一都市の一住民は、人類の再一致というユートピア的宣言を、荘厳な儀式宣言として聞いたであろう。ドラマチックなジェスチャー(脱衣・浸水・着衣)によって強調されつつ、このような宣言は――その言葉が意義深いものとして受け止められた共同体内では――象徴的な宇宙を形成することを支える力をもたらしたであろう。……現代の哲学者たちはこれを「行為遂行的発言」〔performative utterance〕と呼ぶであろう。……この宣言は、社会的役割を根本的に修正するような、現実における「客観的な」変化という事実的要求をなすものである。この後には新しい姿勢と改められた振る舞いとが続くであろう1414Meeks, “The Image of the Androgyne,” 182.

ミークスは言語哲学の「行為遂行的発言」という用語を用いて次のことを明確に述べている。すなわち、原始キリスト教の洗礼における「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく…」という宣言は、単に洗礼において(少なくとも理念的には)達成された民族・身分・性別の二分法の克服という事実を確認しているのではなく、むしろそこに述べられている事柄が――それが事実としていまだ達成されていない場合にはなおさら――事実として達成されるような行為をキリスト教共同体に要求する1515「行為遂行的発言」とは、よく知られているように、イギリスの哲学者J・L・オースティンの用語である(Meeks, “The Image of the Androgyne,” 182は脚注79でその名前にだけ言及している)。オースティンは当初、「行為遂行的発言」を、単に事実を報告する「事実確認的発言」と対置させて次のように定義した。すなわち「行為遂行的発言」とは、「その発話を発することが行為の遂行であること――通常はたんになにかを言うだけとは見なされないこと――を示唆する」発言のことである(オースティン『言語と行為――いかにして言葉でものごとを行うか』〔飯野勝巳訳〕、講談社、2019年、21頁)。もっとも、オースティンは同一の著作の中で(元来は連続講演)「事実確認的」と「行為遂行的」の区別を撤回した。「事実確認」と「行為遂行」は、発話行為の二つの種類ではなく、むしろあらゆる発話行為に備わる二つの側面であることが彼に認識されたからである。従って、一見すると全くの事実確認的のように思われる発言にも、行為遂行的な契機が備わっている。以降筆者は(Meeksに倣って)、本稿が扱う「洗礼定式」を指してたびたび「行為遂行的発言」という用語を用いるが、これはオースティンの発話行為理論を「洗礼定式」の解釈に厳密に適用することを目指しているのではない。この用語を用いることによって(オースティン自身が「行為遂行的」という用語を放棄したのだとしても)、「洗礼定式」がそこに述べられている事柄の達成を原始キリスト教の共同体に要求したという機能を強調したいのである。。その意味で、荒井献が、ガラテヤ書3章27-28節を「女性解放のマグナカルタ」1616荒井『新約聖書の女性観』、218頁。と呼ぶのは実に的確である。

ところで、この「マグナカルタ」には、民族・身分・性別の二分法の克服の他にもうひとつ興味深い表現があらわれる。3章27節における「キリストを着る」(χριστὸν ἐνδύομαι〔クリストン・エンドゥオマイ〕)という表現である。上記の私訳において〔 〕で補ったように、テクストは「キリストを着たあなた達には、もはやユダヤ人もギリシャ人もなく……」と読まれるべきである。すなわち、テクストにおいては、「キリストを着る」という着衣メタファーが、社会的二分法の克服という「行為遂行的発言」を支えている。本稿は、この「キリストを着る」という着衣メタファーと民族・身分・性別の二分法の克服がどのように関連するのかを問うことを通して、古代地中海世界において原始キリスト教の洗礼が有した解放的な機能を「衣服」という視点から論じることを目的とする。私見では、この点が、フェミニスト的視点からの聖書解釈を含め多くの研究に見逃されてきた。先行研究には、この着衣メタファーの由来をめぐって、その背景を旧約聖書ならびにそのギリシャ語訳における着衣メタファーに求める意見(たとえばイザヤ書LXX61章10節の「救いの衣ἱμάτιον σωτηρίου〔ヒマティオン・ソーテーリウー〕」など)1717R. N. Longenecker, Galatians, WBC 41 (Dallas: Word Books, 1990), 156.、いわゆるヘレニズム密儀宗教の加入儀礼との関連を指摘する意見(アプレイウス『黄金のロバ』11.23; プルタルコス『イシスとオシリス』352b参照)1818Betz, Galatians, 188; 山内『ガラテア人』、220頁。、さらに原始キリスト教において洗礼式がおそらく脱衣状態で行われていたであろうことに背景を求める意見などがある1919v. Gemünden, “Die urchristliche Taufe,” 229-230; Meeks, “The Image of the Androgyne,” 183-174; P・F・ブラッドショー『初期キリスト教の礼拝――その概念と実践』(荒瀬牧彦)、日本キリスト教団出版局、2006年、21-22頁。。これらの可能性は相互に排他的でないが2020たとえばLongenecker, Galatians, 156は、着衣メタファーの背景を専ら旧約聖書に求めつつも、この表現が原始キリスト教における脱衣状態での洗礼を示唆するとしている(Moo, Galatians, 252が同様)。また、浅野『ガラテヤ書簡』、311頁も、これら全ての意見を相互補完的に採用する。これら全ての背景を包括的に扱った文献として、J. H. Kim, The Significance of Clothing Imagery in the Pauline Corpus (London/NY: T&T Clark, 2004)を参照。、どの意見も、なぜこの着衣メタファーが民族・身分・性別の二分法の克服へと直接につながるのかを説得的に明らかにできていない。そこで本稿はまず、この着衣メタファーの背景を脱衣状態での洗礼実践に求める意見に依拠しつつ、K・アプソン=サイアによる古代地中海世界における衣服とジェンダーならびに権力構造の関係に関する議論を、原始キリスト教の洗礼式の理解に応用することを試みたい。アプソン=サイアの研究は、古代地中海世界における衣服(dress)を、民族・身分・性別の二分法が複雑に絡み合う権力構造のシンボルとして提示した。このような知見を応用しつつ、本稿はまず次のようなテーゼを提出することになるであろう。原始キリスト教の洗礼は、民族・身分・性別の二分法のシンボルである衣服を実際に脱ぐという行為を通して、その二分法の克服を儀礼的に演出する宗教行為であった。このことを確認するために、以下ではまず、複数の古代文書を根拠に、原始キリスト教の洗礼において、衣服の着脱が実際に伴ったという歴史的可能性を短く論じよう(第1章)。次に、アプソン=サイアの議論を紹介しつつ、古代社会における衣服と権力構造の関係を、とりわけジェンダーに注目して論じる(第2章)。

これらの議論をふまえ、本稿は次に、社会的な二分法の克服を要求するこの洗礼定式が「新しい二分法」を生み出すとする意見と批判的に対話する。ここでも衣服とジェンダーをめぐる権力構造の関係が議論のテーマになるであろう(第3章)。最後に、「キリストを着る」という表現そのものに注目し、現代社会におけるファッションとアイデンティティならびに権力構造をめぐる議論をこの着衣メタファーの解釈に発見的に参照することによって、洗礼が社会的二分法の克服のために有した解放的機能を論じよう(第4章)。

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