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キリストを着る

―原始キリスト教の洗礼における衣服・ジェンダー・権力―

大川大地氏

1. 原始キリスト教の洗礼と衣服の着脱

洗礼に関連する着衣メタファーはガラテヤ書3章27-28節の他に、新約聖書ではコロサイ書3章9-10節とエフェソ書4章22-24節にあらわれる(この両書においては、「古い人を脱ぎ、……新しい人を着る」という表現であらわれる。D・J・ムーが適切に述べているように、「新しい人」とは実質的にはキリストのことである2121Moo, Galatians, 252.)。このような着衣メタファーが、受洗者(たち)が衣服を脱いで水の中へ行き、受洗後に水から上がってから衣服を身につけたということを反映している可能性は十分にある。P・F・ブラッドショーが言うように、「これが1世紀に普通の習慣であったという証拠はないが、後の資料では十分に立証されている」2222ブラッドショー『初期キリスト教の礼拝』、21-22頁。Kim, Clothing, 96-101も参照。

このことが最も明確に描写されている資料は、ローマの司教ヒュッポリュトスの作とされる『使徒伝承』(Traditio Apostolica)の21章「聖なる洗礼の授与」(De traditione baptismi sancti)である。一般に紀元3世紀初頭の成立と考えられるが、そもそもヒュッポリュトスの作ではない可能性があり、さらにある部分は2世紀に、ある部分は4世紀に遡る異なる文書が組み合わされたものである可能性がある2323ブラッドショー『初期キリスト教の礼拝』、40-41頁参照。。いずれにせよ、該当箇所には次のようにある。

鶏の鳴くころ、まず水の上に祈る。この水は泉の湧き水か、高い所から流れてくる水でなければならない。……〔受洗者たちは〕まず衣服を脱ぐ(ponent autem vestes)。まず子どもたちに洗礼を授ける。……次に男子、最後に女子に洗礼が授けられる。女子は髪を解いて、身につけている金の飾りも外す。……このようにして司祭は受洗者を裸のまま(nudum)、洗礼を授けるために水のそばに立っている司教または司祭に渡す。……続いて、受洗者は各自からだを拭き、衣服を着けてから教会に入る2424日本語訳とラテン語原文は、土屋吉正(訳)『聖ヒッポリュトスの使徒伝承――B. ボッドの批判版による初訳』オリエンス宗教研究所、1999年、44-51頁から。

これに加え、私たちは3-4世紀の複数の教会教父たちの発言(エルサレムのキュリロス『秘儀入門』、コンスタンティノープルのヨハネス・クリュソストモス『洗礼の手引き』等)に、洗礼における衣服の着脱の直接的描写を確認でき、3世紀のシリア教会の規則『ディダスカリア』にその間接的描写を確認できる。そこには洗礼に際して次のような指示が見られる。

先ず第一に、女性が洗礼の水へと降りていく時には、その女性たちは女性執事から塗油を受けなければならない。女性がいない所、殊に女性執事がいない所では、やむを得ず授洗者が洗礼を受ける女性に塗油を行う。女性がいる所、殊に女性執事がいるところで女性が男性たちに見られるのは適切ではない2525ブラッドショー『初期キリスト教の礼拝』、28頁からの引用。

この規則が言外に示しているのは、女性が洗礼の前に塗油を受ける際に実際に衣服を脱いでいたということである。『ディダスカリア』の該当箇所は、洗礼に際して女性の裸が男性に見られぬように配慮を求めており、従って、L・ガイのように、ユダヤ・キリスト教的な価値観では、当時においても女性の裸を男性が見ることが不適切であったということを根拠に、「男性司祭が実際に裸の女性に洗礼を授けていたということはありそうもない」2626L. Guy, “‘Naked’ Baptism in the Early Church: The Rhetoric and the Reality,” (The Journal of Religious History 27, 2003, 133-142), 136.とは言えない。『使徒伝承』における子ども→男性→女性という洗礼の順序は、女性を最後にすることで彼女たちの裸が男性に見られずに済むようにという配慮であると思われる。

これらの教会規則や教会教父たちの発言が示すのは、脱衣状態での洗礼実践が、一部の地域に限られた習慣であったのではなく、広範囲に及ぶものであったということである(ローマ、エルサレム、コンスタンティノープル、シリア)。確かに、上記の教会規則や教会教父たちの発言はいずれも紀元2-4世紀のものであり、これをそのまま1世紀の原始キリスト教の洗礼実践に遡らせることはできない。実際に新約聖書にも、1世紀後半に成立した教会規則『ディダケー』にも、脱衣状態での洗礼を直接に描写する箇所はひとつも見当たらない。しかしながら、1世紀には着衣の状態で洗礼が行われていたのが、2世紀以降広範囲で脱衣状態の洗礼が実践されるようになったと見なすのは不自然である。エルサレムのキュリロスは、脱衣状態での洗礼の根拠を、キリストが裸で十字架にかかったということに求めており(『秘儀入門』2. 20)、ヨハネス・クリュソストモスは、楽園で裸であったアダムとエバにその神学的根拠を求める(『洗礼の手引き』11. 28)。これらの例が示唆するのは、2世紀以降いずれかの神学的理由によって脱衣状態での洗礼が実践されるようになったのではなく、すでに広範囲に長く続いていた脱衣状態での洗礼を、教会教父たちが様々な神学的理由で正当化しようとしたということである。

上記の証言に加え、新約外典文書『パウロとテクラの行伝』を1世紀の脱衣状態での洗礼実践を支持する最も古い資料として挙げることができるかもしれない(教父テルトゥリアヌスの紀元200年頃の著作『洗礼について』が『パウロとテクラの行伝』を知っているので、それ以前の成立でなければならない。おそらく小アジア地域での成立か)。その4章8-11節によると、パウロの説教を聞き、純潔の伝道者として生きることを決意したテクラという女性が、自身に暴行しようとしたシリアの高官の「衣服を破り」、彼を侮辱したので、アンティオキアで野獣刑に処されることになった。彼女は衣服を脱がされて、腰巻(διαζώστρα〔ディアゾーストラ〕あるいは下着)だけを身に着けた状態で闘技場に投げ込まれる。そこにあった水いっぱいの堀で彼女は自分自身に洗礼を授けるが、彼女のまわりを火の雲が覆い、彼女はその裸を(αὐτὴν γυμνήν〔アウテーン・ギュムネーン〕)人々に見られることがなかった。受洗後に、アンティオキアの総督が彼女に衣服を着せる2727ギリシャ語原文と英訳は、J. W. Barrier, The Acts of Paul and Thecla: A Critical Introduction and Commentary, WUNT 270 (Tübingen: Mohr Siebeck, 2009), 157-168を参照。この文書の日本語訳は、青野太潮(訳)「パウロ行伝(パウロとテクラの行伝)」(荒井献〔編〕『新約聖書外典』講談社文芸文庫、1997年、234-255頁)を参照。。以上の要約から明らかなように、この物語は、受洗前に衣服を脱ぎ、受洗後にそれを着るという『使徒伝承』の描写と一致しており、テクラの裸が人々に見られなかったという描写は、『ディダスカリア』の関心と一致する。つまり紀元200年以前には成立していたテクラの自己洗礼の物語は、原始キリスト教の脱衣状態での洗礼実践を反映している可能性がある2828Barrier, The Acts of Paul and Thecla, 163を参照。。その際、闘技場でのテクラが腰巻(下着)を身に着けているように、上記の諸資料にあらわれる「裸」を意味するギリシャ語とラテン語の単語(γυμνός〔ギュムノス〕/nudus)は、必ずしも「全裸」を意味するとは限らない2929Guy, “‘Naked’ Baptism,” 138がこの点を詳細に議論している。。しかしながら、「半裸」にせよ「全裸」にせよ、上記の諸資料の全てが、洗礼に衣服の着脱が伴うことを前提としている3030加えて、新約外典『トマス行伝』121章に記された洗礼直前の場面の描写を参照。「彼はミュグドニアの乳母に命じて彼女の衣服を脱がせ、モスリンで包ませた」。

以上のことから、私たちは次のことを原始キリスト教における洗礼実践の歴史的可能性として続く議論の前提としよう。すなわち、紀元1世紀の原始キリスト教においても、洗礼における衣服の着脱は広範囲に実践されており、ガラテヤ書3章27-28節における洗礼定式における――さらに加えてコロサイ書とエフェソ書の洗礼描写における――着衣(と脱衣)メタファーは、このような洗礼実践を背景に形成された可能性がある。それでは、洗礼に際して、洗礼を受ける者たちが、実際に衣服を脱いだ意味は何であったのか。私たちは次にこの点を問おう。

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