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キリストを着る

―原始キリスト教の洗礼における衣服・ジェンダー・権力―

大川大地氏

3. 「新しい二分法」?

先述のように、アプソン=サイアがその著書の2章以降に探求する3-4世紀のキリスト教禁欲主義の女性たちの装いは、本稿の扱う問題とは関心も年代も重ならない。しかし彼女は、ここでも私たちにとって非常に重要な指摘をしている。すなわち、3-4世紀のキリスト教は、民族・身分・性別の二分法の代わりに、(道徳的に優った)キリスト教徒/(道徳的に劣った)異教徒という二分法を新しく採用したというのである。彼女によれば、ここでも衣服はその二分法の目に見えるシンボルとして機能する。「キリスト教の指導者たちは、キリスト教徒の衣服が――とりわけ女性のキリスト教徒の衣服が、〔異教世界に対しての〕キリスト教のアイデンティティの目に見える、物質的な表現となることを望んでいた」4242Upson-Saia, Early Christian Dress, 36.。3-4世紀のキリスト教禁欲主義の女性たちの極端に質素な衣服は、偽りの栄華に溺れる道徳的に退廃した一般女性と彼女たちとの区別を表すシンボルである。しかしながら私たちは、ガラテヤ書において洗礼定式を引用したパウロに、すでにこのような「新しい二分法」が生まれていないかを疑ってみることができる。パウロの書簡において、ガラテヤ書の該当箇所以外に「キリストを着る」という表現があらわれるのは、ローマ書13章11-14節である。そこでパウロは洗礼に暗示的に言及しつつ、次のように言う。

今や、私たち〔=キリスト教徒〕の救いは、私たちが信仰に入った時〔=洗礼を受けた時〕よりも近づいている。……それゆえに私たちは闇の業を脱ごうではないか。光の武具を身につけようではないか。日中におけるように、品格をもって歩もうではないか。酒宴や泥酔によってではなく、淫乱と放縦によってでもなく、争いや妬みによってでもなく。むしろあなた達は主イエス・キリストを着なさい(私訳)。

一見して明らかなように、ここでは「キリストを着る」という着衣メタファーはキリスト教徒と異教徒を分ける指標として機能している。従って、ガラテヤ書3章28節で洗礼定式を引用したパウロの意図についての上村静の次の発言は、私たちに説得力を持つ。

パウロは、「(もはや)ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もない」と言う。この発言をパウロが社会差別を無化するために語ったと取るのは間違いである。そうではなく、ここで言われているのは、キリスト派に入信するのには民族や地位や性別は関係ないというだけのことである。逆に言うと、キリスト派の信者にならなければ、どの民族、どういう社会的地位、どういう性別であろうと滅びるのである4343上村静『宗教の倒錯――ユダヤ教・イエス・キリスト教』岩波書店、2008年、252頁。

先に言及したコロサイ書とエフェソ書にも、「新しい人を着る」という着衣メタファーの前に、キリスト教徒であれば犯すべきではない悪徳が列挙されている。果たして、民族・身分・性別の二分法の克服という儀礼的な演出は、キリスト教徒/異教徒という「新しい二分法」なしには機能しなかったのであろうか。

しかし、この「新しい二分法」は、民族・身分・性別の二分法が浸透した通常の社会と、少なくとも理念的にはその二分法の克服を達成した(あるいは、克服を追求する)キリスト教共同体を区別するという意味においては、二分法の犠牲となった側のキリスト教徒に解放的な意味を持ったと思われる。P・フォン・ゲミュンデンは、コロサイ書3章9-11節を、私たちが扱ったガラテヤ書3章27-28節の「伝承史的別バージョン」であると見なす4444v. Gemünden, “Die urchristliche Taufe,” 230.。この見方は正当であり、実際にそこでは「新しい人を着る」という着衣メタファーの後に、「ギリシャ人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはない」(3章11節)との明言が続く。その上で彼女は、同書3章8節に記された悪徳が(そしてガラテヤ書5章24節、ローマ書13章11-14節に記された悪徳が)、全て「感情のなすがまま」に振舞った結果の悪徳であることに注目するのである。「ギリシャ人は野蛮人を感情のなすがままの人間だと考えており、ユダヤ人も異邦人に対して同様に考えていた。そして多くの人が奴隷には〔感情の〕自己制御の能力を認めていなかった」4545Ibid.。原始キリスト教の洗礼定式は、共同体内の全ての人に自己制御の能力を認め、この悪徳が克服されていると言う。「キリスト教共同体では、多くの人が様々な文化的背景を持って集まっていたのであるから、攻撃と性的な感情の制御によってのみ、メンバーが共存可能であった」4646Ibid.。さらに、古代地中海世界では一般に女性たちにも感情、とりわけ性欲と物欲に対する自己制御の能力が認められていなかった(セネカ『賢者の不動心について』14.1を参照。女性は「思慮のない、そして感情を制御できない動物」である)4747v. Gemünden, “Die emotionale Frau,” 138-141も参照。。フォン・ゲミュンデンは注目していないが、古代地中海世界において女性たちに対するこのような偏見は、しばしば彼女たちのファッションに結び付けられた(「海の勲章で飾られた妻が情欲を抑えきれず」〔ペトロニウス『サトュリコン』55〕、「女は自分に対してはどんなことでも許す。鮮緑色の宝石のネックレスを首に巻き付けても……」〔ユウェナーリス『風刺詩』第6歌〕)。これに対して『使徒伝承』は、受洗前に女性たちが金の飾りを外すと言う。洗礼に際して、女性たちは、「感情を制御できない動物」から、自らの意思で権力の象徴たる飾りを取り外すことのできる「新しい人」へと変わるのである。こうして原始キリスト教は、その周辺世界における「規範的な生活様式に背を向ける者たちのひとつのサブカルチャー的なグループ」4848v. Gemünden, “Die urchristliche Taufe,” 233. 原文のイタリックによる強調は省略した。また、Meeksの次の発言も参照。「これによって〔=「洗礼定式」によって〕、こうしたグループは〔=原始キリスト教は〕自らを、より大きな社会の通常の『世界』から区別したのである」(Meeks, “The Image of the Androgyne,” 182)。として理解される。洗礼とはこのサブカルチャー的グループへの入信儀礼であり、そこで受洗者たちは衣服に象徴される周辺世界の権力構造が目に見えるかたちで解除される様を体験した。このことを証言する洗礼定式は「女性たちにとって画期的なこととして受け取られたに違いない」4949絹川「『洗礼告白』」、400頁。

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