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キリストを着る

―原始キリスト教の洗礼における衣服・ジェンダー・権力―

大川大地氏

4. 「闘う衣服」としてキリストを着る

「行為遂行的発言」としての洗礼定式は、以上のような儀礼的な演出と表現を、社会的現実のレベルで実現するようにキリスト者たちに要請した。私たちは最後に次のように問おう。「新しい姿勢と改められた振る舞い」(ミークス)はどのようにして可能になるのか、そしてその姿勢と振る舞いに「キリストを着る」という着衣行為のメタファーはどのように関連するのか。

現代文化論を専門とする後藤吉彦によれば、ファッションとは、美しさや、女らしさ/男らしさなどの評価基準の規範であり、「私たちはその規範を、ファッションをとおして、文字通り身体化し、内面化」する5050後藤吉彦「ファッションと『フレフレわたし!』の美学――生-権力と抵抗について」(新教出版社『福音と世界』2019年2月号、30-35頁)、32頁。従って、一見すると個人の選択に見える現代社会のファッションが、実際は社会規範に従属するものであることが認識される必要がある。小野原教子『闘う衣服』(記号学的実践27)、水声社、2011年、18頁も参照。。その上で後藤は、たとえば現代日本におけるロリータ・ファッションや漫画やアニメのキャラクターになりきる「コスプレ」5151「コスプレ」とは「コスチューム・プレイ」という和製英語の省略形。定義について、C. McGunnigle, “Rule 63: Genderswapping in Female Superhero Cosplay” in M. Goodrum et al. [eds.], Gender and the Superhero Narrative (Jackson: University Press of Mississippi, 2018, 144-173), 144を参照。「コスプレは、フィクションのキャラクターの特徴的なフレーズや行動を模倣しながら、そのキャラクターになりきることのできるコスチュームをファンが身にまとうことだと定義することができる」。、男装・女装などの、自分がなりたい姿への扮装(dress up)に、規範から解放されたアイデンティティの方向定位の可能性を見る。彼によれば、扮装とは「するべきだ」という規範に従ってきた自己を「一旦外し」、別の自分を擬似的・実質的につくりだす「生存の美学」の実践である5252後藤「ファッション」、34頁。。同じように、「社会では生きにくい……スタイル」であるロリータ・ファッションを分析した小野原教子も、そのファッション雑誌に「ほんとうの自分」という言葉が頻出することに注目し、そのファッション・スタイルにおいて「衣服の着脱行為が、自分探しの物語になぞらえられて」いることを指摘している5353小野原『闘う衣服』、314-315頁。。アメリカでスーパー・ヒーロー漫画/映画のキャラクターをコスプレするLizという女性にとっても、「コスプレ」という衣服の着脱行為は自分探しの実践である。彼女はあるインタビューにおいて次のように発言している。「私はコスチュームを着ているときにそのキャラクターになるのが好きです。なぜならそのキャラクターはすでに何らかの意味で私自身になっているからです」5454McGunnigle, “Rule 63,” 156. 傍点は引用者。。小野原は、これらの扮装(dress up)を「衣装を通しての〈他者〉の体験」と定義している――それは、「〈私〉のパターン(型紙)を、壊しながら作りつづけていく」行為である5555小野原『闘う衣服』、272頁。。社会の権力規範から自己を解除するこのような扮装を、私たちは小野原の著作の表題にならって「闘う衣服」と言い得るであろう。

原始キリスト教の洗礼式において、受洗者たちは洗礼後衣服を着て教会に戻った。彼ら/彼女らは、おそらく教会の外では再び衣服の規範に縛られたであろう。しかしながら、実際の衣服の着脱によって社会的な平等を儀礼的に演出した洗礼が、あるいはその演出に用いられた「キリストを着る」という着衣メタファーが、規範に従ってきた自己を「一旦外し」、規範に縛られない別の自分を、あるいは「ほんとうの自分」を擬似的・実質的につくりだす「生存の美学」の実践となったということは、想定できるのではないだろうか。確かに、後藤と小野原が観察対象とする現代社会のファッション文化における衣服の機能と、紀元1世紀の原始キリスト教という宗教団体におけるそれとの間にある歴史的・文化的な隔たりは大きい。しかしそれでも、私たちは、浅野淳博が洗礼定式に用いられる「着る」(ἐνδύομαι〔エンドゥオマイ〕)という動詞に、役者が役になりきって演じるという意味合いがあることを指摘していることに注目することができる5656浅野『ガラテヤ書簡』、304頁。浅野が例として挙げるのは、ハルカリナッソスのディオニュシオス『ローマ古代誌』11.5.2。。つまり、「キリストを着る」という表現は、キリスト教共同体への加入に際して、キリスト者がキリストの生き様へと参与する様子を――キリストを着てキリストを演じる――演劇メタファーを用いて示すものである(ガラテヤ書3章27節「キリストへと洗礼を受けたあなた達は」)5757浅野『ガラテヤ書簡』、311頁。また、Öhler, “Neues Testament,” 50も参照。。洗礼定式をガラテヤ書で引用したパウロは、キリストへの参与を同書において「もはや生きているのは私ではなく、キリストが私において生きている」(2章20節)と表現した。つまり、「キリストを着る」という着衣メタファーとその背後にあると想定できる洗礼に際しての実際の衣服の着脱行為は、「衣装を通しての〈他者〉の体験」であったと理解することができる。後藤が小野原の議論を参照しつつ言うように、「『衣装を通しての〈他者〉の体験』が、生まれてから背負ってきた自己と、他者を装うことで自ら生み出した別の自己とのあいだでの、相互作用の可能性を秘めている」5858後藤「ファッション」、35頁。のであれば、原始キリスト教の洗礼式およびそこで用いられた着衣メタファーが、受洗者たちに及ぼした解放的な機能は過小評価されるべきではない。原始キリスト教という「ひとつのサブカルチャー的なグループ」(フォン・ゲミュンデン)に入信する者たちは、その入信儀礼たる洗礼において、衣装を通して他者を体験し、自身を縛り付ける民族・身分・性別の権力規範に対して「闘う衣服」を身に付けたのである。もちろん、現代のロリータ・ファッションや「コスプレ」などが幾度も繰り返すことのできる実際の着衣行為であるのに対して、「キリストを着た」という表現は、あくまで「メタファー」であり、かつ、日常生活で繰り返すことのできない一度限りの経験を表現している。しかし、受洗者たちが象徴的に着たキリストは、パウロが言うように、洗礼の後も「私において生きている」。そのキリストが分断され得ないからこそ、信者たちは「キリスト・イエスにおいて一人」なのであり、その有機的な連帯を分断する二分法はもはや無効なのである5959浅野『ガラテヤ書簡』、315頁参照。。洗礼において受洗者が象徴的に着た「キリスト」という新しい衣服は、まさにアプソン=サイアの言うように民族・身分・性別の二分法を克服した「キリスト教のアイデンティティの目に見える、物質的な表現」であったと理解することができる。

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