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宗教と文化の専門新聞 創刊1897年
第18回「涙骨賞」を募集
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中外日報宗教文化講座2021 第18回「涙骨賞」を募集
第17回「涙骨賞」受賞論文 奨励賞
たかまつ・せつこ氏=1965年生まれ。岐阜県出身。名古屋大文学研究科博士前期課程2017年度修了、現在、同人文学研究科博士後期課程在学中。論文に「自誓受戒の好相行・好相をめぐる考察-近世期・真言律系を中心に-」(『日本宗教文化史研究』第23巻第2号、2019年)など。

近世戒律復興運動の祖師・俊正明忍

対馬における奇瑞・臨終瑞相をめぐって

高松世津子氏

はじめに

仏教修行の三学「戒定慧11仏教修行の三つの要目。「戒」は止悪修善、「定」は心を静め陶冶すること、「慧」は真理を証得することである。」の基本は戒であるとされるが、さまざまな背景において僧侶が戒律を守らない状況に陥る中、幾度か戒律復興の機運が興り、実行する僧が現れた。日本近世期の仏教戒律復興運動は、慶長七年(一六〇二)に俊正明忍(一五七六~一六一〇)らが京都栂尾山高山寺において自誓受戒22松尾剛次『新版鎌倉新仏教の成立-入門儀礼と祖師神話-』(吉川弘文館 一九九八)p185~。し、通受比丘33通受とは、三聚浄戒を受けることにより声聞戒(律儀戒)と菩薩戒とを総じて受けるという、鎌倉初期の覚盛によって創出された受戒法。そもそも通受とは、「僧俗が通じて(共通して)受けること」という意味であったが、覚盛により「ただ三聚浄戒のみを受けることで 声聞戒(律儀戒)と菩薩戒とを通じて受けられる」という意に変じられ用いられるようになった。それは、律蔵および印度以来の菩薩戒の授受に関する規定とは異なり、南都でも鑑真以来否定されてきたものであった。また通受によって具足戒を受けた者を通受比丘という。蓑輪顕量「覚盛の通別二受の主張」(『中世初期南都戒律復興の研究』〔法蔵館・一九九九〕第四章)。となったことにより始まる。

日本における戒律復興運動で行われた自誓受戒とは、本来、別受をした上で三聚浄戒44六波羅蜜のうち戒波羅蜜の具体。『華厳経』や『菩薩善戒経』等の経典に説かれ、『瑜伽師地論』(および『菩薩地持経』)や『摂大乗論』など、主として唯識系の論書においてその具体的内容が詳述された、摂律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒の三種をその内容とするもの。声聞乗における五戒・八斎戒・十戒・具足戒などの律儀戒と、菩薩乗における菩薩戒とを包摂したものであり、大乗教徒が必ず受持すべきものとされる。を受戒することにより初めて菩薩比丘となりうる、とされるところを、戒律の断絶によってその相承が不可能となっていたために、仏・菩薩の形像の前で菩薩比丘になろうと自ら誓って受戒することをいう。これは鎌倉期の覚盛55一 一九四~一二四九。貞慶に師事、明恵から華厳を戒如から律を学ぶ。興福寺常喜院で戒律を学び嘉禎二年(一二三六)叡尊らと東大寺で自誓受戒をした。唐招提寺中興祖。によって創始された受戒法であったが、本来別に受けるべき具足戒を、三聚浄戒の摂律儀戒としてまとめて受けるというもので、従来の戒律理解と異なるものであった。その自誓受戒は、懺悔行(好相行)を行い好相といわれる何らかの奇瑞を感得した上で、初めて成立するものであるとされる。

自誓受戒の好相行とは、大乗戒を受けるに当り、過去に犯した過罪を発露し懺悔して心身清浄となるために仏からの好相を感得するまで続ける行であり、『梵網経』第二十三軽戒66SAT大正新脩大蔵経テキストデータベース T1484.24.1006c05~。に根拠がある。心に障碍、業障、罪業などがある状態では、諸仏菩薩などの聖的存在を見る機縁を持たないため、懺悔、読経、修禅、礼拝などをして滅罪・清浄化した結果好相感得が可能になるとされる77荒井しのぶ「法華経と苦行と滅罪」(東洋哲学研究所紀要〔二四〕東洋哲学研究所二〇〇八)。また、山部能宜「『梵網経』における好相行の研究」(荒牧典俊編『北朝隋唐中国仏教思想史』法蔵館二〇〇〇)など、経典から大陸の起源までに遡る研究もある。。また、好相の内容88松尾剛次「夢記の一世界―好相日記と自誓受戒―」(『日本中世の禅と律』吉川弘文館 二〇〇三)、前掲3蓑輪「夢と好相と懺悔」など。も『梵網経』第四十一軽戒99前掲6 T1484_.24.1008c17~。の「好相とは、仏来りて摩頂し、光を見、華を見る種々の異相にして便ち罪を滅することを得るなり。」という文や、『観普賢菩薩行法経』1010前掲6 T0277_.09.0389b26~。最澄は『梵網経』とともに自誓受戒の根拠とした。、『大方等陀羅尼経』1111前掲6 T1339_.21.0656b28~。好相について「若し其の夢中に、師の長手もて其の頭を摩すること有るを見、若し父母、婆羅門、耆旧の有徳の是くの如き等の人、若し飲食、衣服、臥具、湯薬を与うれば、当に知るべし、是の人、清浄戒に住すと」とある。叡尊が好相の根拠の一つとした。『西大寺叡尊伝記集成』(法蔵館一九七七)「自誓受戒記」p338。などの記述が根拠とされた。

日本の平安末期以降鎌倉前期、実範や貞慶、明恵、俊芿らにより戒律復興の機運が高まったのであるが、その後、覚盛・叡尊(一二〇一~九〇)ら1212覚盛、叡尊や忍性(一二一七~一三〇三)、円照(一二二一~七七)など遁世の律僧が中心となった(松尾剛次『新版鎌倉新仏教の成立』〔吉川弘文館 一九九八〕など)。が『占察経』や『瑜伽論』などに基づき、『四分律』に説く具足戒を摂律儀戒とする菩薩戒通受のみによって菩薩比丘になれると主張、好相行を実施した上で自誓受戒を行った。そして、覚盛・叡尊は自らの教団の受戒制度を作り、特に叡尊は皇族・幕府はじめ幅広い層の多くの人々に授戒をし、全国に末寺を展開、殺生禁断・葬送・土木事業・社会福祉活動、また元寇祈祷の成就でも知られる。これは鎌倉期の戒律復興運動であり、室町中期まで継続されたが、その後は世相が混乱するに伴い衰退していった。

その後、戦国期を経て近世初頭、戒律復興運動を興した僧が、本発表で取り上げる俊正明忍である。明忍は朝廷官吏中原氏の生まれで、幼少期、高雄山神護寺中興晋海僧正1313徳川家康の帰依を受け神護寺など中興。に仏教を学び、十一歳で清原家に迎えられ小内記として官職に就いた。十六歳で少外記及び右少史の位に就いたがその後晋海の弟子となり出家した。そして二七歳で、師である晋海僧正、元日蓮宗の慧雲寥海1414慧雲(~一六一七〔一六一六?〕)は叡尊ゆかりの三輪明神前で明忍が宿契のように出会ったとされ稲荷明神に関する奇跡も伝えられるため別の機会に考察したい。、西大寺の僧侶友尊全空1515一六一五没。西大寺で学ぶ明忍・慧雲に共感し、莫逆の交わりを結んだ(表⑤『槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』による。なお諸明忍伝資料情報等に関しては「明忍伝一覧表」を参照。)。、そして玉円空渓1616一六一七没。西明寺第三代衆主。諸明忍伝においては言及がない。とともに、鎌倉期の叡尊の方法を踏襲し、自誓受戒を行った。明忍は槙尾山平等心王院西明寺1717西明寺 京都市右京区梅ヶ畑槙尾町。真言宗大覚寺派。平安天長年間(八二四~三四)に、弘法大師高弟智泉により神護寺の別院として創建。修業に適した山寺で、平安時代末期に荒廃、鎌倉時代の建治年間(一二七五~七八)に我宝自性上人が中興、正応三年(一二九〇)に後宇多法皇が平等心王院の号を命名し神護寺より独立した。戦国時代の永禄年間(一五五八~七〇)に兵火により焼亡したが、慶長七年(一六〇二)に明忍により再興された。現在の本堂は元禄十三年(一七〇〇)に桂昌院の寄進により再建。を律院として再興した後、大陸(中国)での、本来の受戒法である「別受相承」を目指して慶長十一年(一六〇六)、浄人1818比丘の傍に仕える在俗の人。道依は後に西明寺で沙弥から自誓受戒して比丘になる。の道依明全のみが随行し平戸に至り対馬に渡った。対馬における持戒の生活は困窮を極め、その後、国禁森厳にして渡航できないまま、慶長十五年(一六一〇)六月七日、当地で病死した(三五歳)。明忍示寂後も、西明寺・青龍山野中寺1919大阪府羽曳野市。西明寺で自誓受戒した慈忍慧猛による中興。・大鳥山神鳳寺2020和泉国大鳥郡、大鳥神社神宮寺。明治の神仏分離で廃絶し、寺宝などは現在光明院蔵。賢俊良永より受具した真政円忍の弟子快円恵空らが再興した。良永は対馬宗家出身。偶々帰省した対馬で明忍と会い、西明寺で受戒した。の「律の三僧坊」とその末寺などを中心に発展、新来の臨済系黄檗派(黄檗宗)も関わり、浄土宗2121例えば霊潭性澂(一六七六~一七三四)、敬首祖海(一六八三~一七四八)、普寂徳門(一七〇八~八一)らが自誓受戒をした。、天台宗山門派(安楽律)や寺門派2222寺門派法明律院。拙稿「近世天台宗寺門派義瑞性慶の事績と自誓受戒」(『日本宗教文化史研究』二四-二 二〇二〇・十一)。、法華宗、禅宗など他宗にも伝播した。律の三僧坊では少なくとも近世期を通して(野中寺では明治二十五年まで)自誓受戒を継続し、それぞれ自誓受戒僧名録が残る2323西明寺『自誓受具同戒録』(慶長~安政年間)、野中寺『青龍山野中寺僧名録』(寛永~明治二十五年)、神鳳寺『神鳳一派僧名帳』(延宝~慶応二年)。後掲29『日本における戒律伝播の研究』に翻刻が掲載。。近世の律僧は、懺悔(好相行)を通して自誓受戒を許され比丘になれたとされる2424藤谷厚生「近世初期における戒律復興の一潮流―賢俊良永を中心に―」(『四天王寺国際仏教大学紀要』人文社会学部三七号 二〇〇三)、「『三国毘尼伝』にみる近世真言律の特徴について」(印度學佛教學研究第五四第二号 二〇〇八)、「近世戒律復興と野中寺律僧坊(『印度學仏教學研究』第五九号第一号 二〇一〇)など。ただ他宗派に関しては、真言律系の自誓受戒を継続したかどうか、調査の必要がある。

明忍は早世したため事績は多くないが、その後の律三僧坊の発展や、日蓮宗深草元政が『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』(以下『行業記』とする)を執筆したこと(「明忍伝一覧表」中②、以下同じ)、建仁寺住持・松堂宗植が朝鮮修文職として対馬滞在中に事績を辿ったこと(⑥)、浄土僧山本治斎(③)、黄檗僧の月潭道澄(⑥⑬)や高泉性潡(⑦)が僧伝中、明忍伝を筆記したことなどにより、彼の存在が他宗にも知られた。また上記を含む諸明忍伝の版行で、多くの人が明忍を知ったと考えられる2525他、西明寺には仁和寺尊寿院阿証(佐竹北家第七代当主)や一通妙愚禅師(当時、宗派を問わず各所で修行し願主にもなった僧。①『開山明忍律師仮名行状』成立にも関わった)により、東寺舎利、叡尊舎利など由緒ある舎利が施入された。

近世戒律復興運動に関する先行研究については、古くは上田天瑞が『戒律思想史』2626東京帝大仏教青年会編 三省堂 一九四〇。の中で触れ、上田霊城が「江戸仏教の戒律思想㈠」などの諸論文2727『密教文化』一 一六号一九七六。「同⑵」は『密教学研究』九号 (大正大学・一九七七)他多数。で近世仏教の戒律思想や諸事績を明らかにした。近年では、藤谷厚生が前掲諸論文2828前掲24など。などにおいて、近世真言律の自誓受戒を詳しく説明、近世戒律復興運動の展開についても述べている。また西明寺を始め野中寺、神鳳寺の「律の三僧坊」所蔵資料が、稲城信子代表『日本における戒律伝播の研究』2929元興寺文化財研究所 二〇〇四。本稿では西明寺の項を参照した。(以下『戒律伝播の研究』)でリスト化され、さらに稲城は「近世における戒律伝播」3030『日本中世の経典と勧進』第4部「中・近世の律宗と聖」第3章(塙書房二〇〇五)。で律の三僧坊などについて概説している。関口静雄らも「妙幢浄慧撰『佛神感應錄』翻刻と解題」(1~8)3131昭和女子大学『学苑』、九二二、九二四、九二五、九二九、九三四、九三六、九三七、九四一号、二〇一七・八~二〇一九・三。などで戒律復興運動の展開を明確化した。そして稿者も近世戒律復興運動の律僧たちの好相行や好相の内容について可能な限りではあるが調査し明らかにしてきた3232拙稿「自誓受戒の好相行・好相をめぐる考察:近世期・真言律系を中心に」(『日本宗教文化史研究』二三-二 二〇一九)、前掲22。

明忍律師に関する先行研究としては、伊藤宏見「対馬海岸寺明忍資料及び墓塔訪問」3333『密教文化』一 一三号 一九七六。、朴蓮淑「『新御伽婢子』の一典拠-巻六「明忍伝」について」3434お茶の水女子大学国語国文学会『国文』一九九八。、山口昌志「槇尾平等心王院明忍律師に関する基礎的研究」3535『放送大学日本史学論叢』⑷二〇一七。、「明忍律師の事績と戒律重視の思想的背景」3636『放送大学日本史学論叢』⑸二〇一八。他「明忍律師の周辺人物について」(同⑺二〇二〇)。などが挙げられる3737他に井上慶覚「明忍律師の正法律復興運動に就て」(佐伯啓造編輯『以可留我』鵤故郷舎一九三六)など。なお大阪法楽寺HPに石川覺應による詳細な資料翻刻や解説が掲載。。伊藤は対馬での明忍の旧跡を辿り、現在は失われている明忍律師の痕跡を伝えている。朴は仮名草子『新御伽婢子』所収の最終話「明忍伝」に着目、複数の明忍伝と比較しその成立背景を明らかにした。山口は明忍伝や諸資料、先行研究を整理し、キリシタン思想の影響等も考察し在俗期を明確化、明忍研究を進展させた。

しかしこれら明忍専論の先行研究においては、明忍が鎌倉期叡尊らの自誓受戒により戒律復興を始めたことを重視していない。特に稿者は、明忍らが四方僧坊を作り、そこで僧侶が起居・修学する中、沙弥から比丘になる時、好相感得必須の自誓受戒を皆に課したという点に注目する。これは野中寺・神鳳寺でも引き継がれ行われた。

一方、明忍その他僧侶が、自誓受戒前行で感得した好相を記す文書(好相記)は、西明寺に残されていない。そもそも、自誓受戒前行の好相のみならず、様々な状況で体験された自筆の奇瑞資料が残されていることは非常に数少なく、たとえ存在しても秘匿されることが多い。そのような中で稀に、師の示寂後、弟子が自誓受戒好相記を発見し、その内容を行状記等に記述するなどのこともある。例えば、野中寺中興慈忍慧猛の好相記に関しては原本が野中寺に蔵され、天台宗寺門派義瑞性慶の好相記については弟子が『行業記』にその内容を記述している3838前掲拙稿22、32。

西明寺の場合は、対馬で明忍が感得した奇瑞の自筆資料が二つ蔵される。これらは自誓受戒に関わりはないが、戒をたもつことにより神仏の感応道交が可能になるとされるため、自誓受戒を行った持戒の祖師の体験内容を書いた自筆瑞相であるという点で、その意味は大きく、検討する価値があると考える。そこで本稿では、当資料、対馬滞在三年目の『立願状』3939前掲29 3-18 巻子装 九紙 七書簡を巻子装でまとめた第二。七紙目「平等心王院」(複廓長形朱印)、裏打ちあり。と、示寂寸前に明忍が書いた『明忍律師臨終瑞相』(『臨終瑞相』とする)4040前掲29 キュウ26 軸装36.8×26.0、左下に「平等心王院」(複廓長形朱印)。に着目、戒律復興に身を捧げた祖師の奇瑞としてとりあげる。

『立願状』は本文と付記から成る。そして『立願状』の本文と『臨終瑞相』全文は、複数の明忍伝で引用されている。一方『立願状』の付記は、諸「明忍伝」および先行研究で言及されておらず、本稿でその内容を確かめ対馬三年目の明忍の状況や心情などを明らかにする。また『臨終瑞相』については、諸明忍伝に引用されていることに注目し、往生瑞相伝承の中でも特筆すべき「自筆」事例と捉え、諸往生伝における位置付けや、明忍の生涯や信仰、およびその後の近世仏教における意味について考察する。

本稿の資料引用部分について、基本的に稿者が適宜漢字表記などを直し記号等を付した。

明忍伝一覧表 PDF(約0.5MB)PDFファイル

☆朴蓮淑4141前掲34。、山口昌志4242前掲35 36。の先行研究を参照し、各資料を確認して作成した。

☆なお、明忍の基本資料は、①『開山明忍律師仮名行状』(『仮名行状』)、②『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』(『行業記』)、⑥『槇尾平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』(『曲記』)である。

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