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第17回「涙骨賞」受賞論文 奨励賞

近世戒律復興運動の祖師・俊正明忍

対馬における奇瑞・臨終瑞相をめぐって

高松世津子氏

一、対馬からの手紙 ―慶長十三年(一六〇八)―

表の①『開山明忍律師仮名行状』(『仮名行状』)には明忍が「通受自誓の大願既に円満せしかども猶別受相承4343叡尊は、三聚浄戒を自誓で通受戒して菩薩比丘になった十年後、正規の声聞僧になるために白四羯磨に依って比丘戒を受ける(別受する)べきだとした。の望ありしかば忍師は入唐を心さし給ひぬ。」とある。明忍は通受自誓受戒を遂げた後、如法としての別受を大陸で受ける決心をした。これには、深い釈迦信仰から天竺を目指そうとした、西明寺に近い栂尾山高山寺の明恵上人(一一七三~一二三二)の影響も推測される。西明寺には明忍筆写『明恵上人行状記』4444前掲29 4‐1。、また明恵本を明忍が筆写した『光明真言土沙勧信記巻上中下』4545前掲29 1-9。、『光明真言土沙勧信別記』4646前掲29 1-10。があり、『仮名行状』には西明寺での土砂加持において明恵上人が加持した土砂も用いたことがあったと記される。

そして明忍は、一年ほど準備をして槇尾を後にし、まず平戸に行きその後対馬に滞在する。また⑥『曲記』には、国禁森厳で渡航がままならない状況下の三年目(慶長十三年)、

雲・尊の二公、師の馬島に僑寓して数祀を綿歴するを念ひ、請して山に回しめんと擬して書を馳せて訂するに三年の約を以てす。師の答案に曰く、前に云ふ三年の約は乃ち是れ一期の施設なり。余が素願を識らんと要せば則ち三の字の下に十を加へて方に始めて可ならんかと。竟に旋らせず。

とあり、慧雲・友尊が明忍に三年で帰るよう書簡で求めたが、渡航・別受相承に一生をかける覚悟だと返信した。つまり、明忍は槙尾には戻らず対馬で渡航できる機会をうかがっていた。当時、秀吉の朝鮮出兵により朝鮮との関係は非常に悪化、対馬藩が慶長十二年(一六〇七)、朝鮮通信使の再開を実現させ、ようやく交流が開始される頃であった。

ところが、明忍はこの後、再び手紙と『立願状』を慧雲宛に送った。その手紙の内容について、『仮名行状』には、

彼師対馬より雲師に送る状の中に曰く「異国等法の盛衰を聞き及ぶにさのみ香ばしき事も無し。唯貴院界内和合して満夏の時興行別受有るべし。〔中略〕弥々互ひに相ひ資助し勤め有るべし。新学を導き候ひ我等も終には其の恩浴に預るべく之の念願斗ふに候」と書す。

とある。つまり、大陸での仏法の衰退を対馬で聞き現状では渡航の意味はないと知った。そして槇尾に残る自誓受戒者をともにした同志四人で、律の規定通り受戒後十回の安居を経ることになる自恣の日に、別受をするように言っている。ここで、手紙の文面から、明忍がそれを書いた慶長十三年の夏安居の最終日に、別受をするよう提案したと捉えることも可能であろうが、別受を行いうるのは受戒後最低十年を経ている必要があるため、「十夏の後」を意図したものであろう。つまり、明忍は既に京には帰らないという考えを持ち、自誓受戒から六年目・手紙を書いた慶長十三年の時点において、四年後(自誓受戒から十年後)に四人で新学の徒に別受を行うように託している。そして慧雲・友尊の下で助け合い新学の徒から興律の雄が出ることを念願すると述べたのである。

しかし現実に、明忍と自誓受戒を共にした同志ら四人は、慶長十七年には全て示寂してしまった。「同戒録」などによると4747前掲29 P13)「同戒録」では、晋海僧正と慧雲の示寂の日付はどちらも慶長十六年辛亥三月二日であるが、慧雲の場合、同p18「当寺律法再興以来歴代住寺名位」と西明寺蔵位牌に記される日付を示した。、晋海は同十六年三月二日、慧雲は同十七年二月二日、友尊は同十五年六月二日、玉円は同十七年四月十八日に示寂した。明忍は同十五年六月七日に示寂、五人は相前後して亡くなったことが分かる。その後も明忍が熱望した別受が行われたことを示す資料が見られず、通受自誓受による受戒法が継続されたと考える4848叡尊は別受戒を行ったが、叡尊後、西大寺流の律宗では通受を主とし、徐々に別受を行わない傾向となった。

二、『立願状』の本文―明忍の決意―

次に、前述の手紙に付して明忍が送った『立願状』の前半本文をみると、

   立願状   三寶御寳前
一 聖天供      一七箇日  常の如し
一 御影堂に於て護摩 不動 一百座 若しくは自ら若しくは他
一 伊勢・石清水・春日に参詣 隨分に法施す
右、祈る所の旨趣は、海を越え法を求むること速疾に成就し、毘尼を興隆し、群生を利益するにあり。凡そ発心、遠しと雖も来際を期し、且は一期の要誓を約すこと斯の如し。唯冥感の垂るるを願ふのみ。
  慶長十三年十一月二十九日   明忍敬ひて白す

とあり、立願にあたり聖天供、護摩、三社参詣を行ったことが書かれる。

これについて『曲記』には、明忍三一才の時、大陸での別受相承を志して「高雄(神護寺)に登り、大師の像前に於て恭しく百座の護摩法を修し、又た自ら伊勢・八幡・春日の三神祠に詣して、入唐求法の願を告げて、其の冥護を祈る」とある。

このことから、『立願状』を記し手紙に付して槙尾に送った明忍の意図が理解できよう。つまり、対馬での渡航を諦めている状況において、京を発つ前に別受相承を叶えると誓い神仏の冥護を願ったその決意4949前掲36 ⑸p53。「渡航の志を確かなものとし一年かけて準備をした」。を書いたのである。そして「凡そ発心、遠しと雖も来際を期し、且は一期の要誓を約す」とは、「自分の発心は遠大だが、来世を期待し、今は仮にこの一生の間のこととして取りかかっているところなのだ」ということであろう。明忍はこのように記し、三年で帰るよう求めた西明寺の同志に、帰寺しない意思を強く伝えようとしたのである。

また、『仮名行状』には、明忍が慶長十三年五月二二日の日付で、四分戒本の奥に

既に渡海を欲するとの誓願を発す。若し遂げるとも遂げざるとも、必ず命終することを期す

と書いていた、とある。ここからも、明忍が帰寺しない決意をしていたことがわかる。

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