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翠雲堂
第17回「涙骨賞」受賞論文 奨励賞

近世戒律復興運動の祖師・俊正明忍

対馬における奇瑞・臨終瑞相をめぐって

高松世津子氏

三、『立願状』の付記―金色釈迦像の好相感得―

『立願状』の後半付記にはまず、

昨夜、金色の釈迦像、其の相好、光明殊勝なるを夢む。
骨髄に徹し、覚め了りて猶(稍)眼見す。

とあり、明忍は『立願状』を書く前日の夜、金色に輝く釈迦の姿を夢相で感得し、骨髄に徹する有難い思いを抱いたと記す。「覚め了りても猶(稍)眼見す」は、夢から覚めた後、現実でも金色釈迦が見えたということであろうか。つまり明忍は金色釈迦の好相を見たのである。そして次に、

此れ則ち、昨夜、篤信を示さんと欲して白衣に舎利礼文を書し、
固より其の文義を思ひて睡臥したる故か。
次に彼の文(=『舎利礼文』)、仮に大分して三つなり。
初めより我証菩提に至るは自利、
次に以仏より円寂に至るは利他、
後の平等以下は惣礼なること斯の如し。断簡を致す。
又、此の文の作者は不空三蔵か。分明に記さず。
若し知識に遇せば問答を請はん。

とあり、金色釈迦像の好相を見た理由について「昨夜篤信を興し白衣に舎利礼文を書き、その文義を思いながら寝たためか」と書く。『舎利礼文』5050小林正盛編『真言宗聖典』(森江書店 一九二六)P181。とは、仏舎利(釈迦の遺骨)および悟りの大智を讃える偈文で、一説には不空5151不空金剛(七〇五~七四)、唐の高僧、四大訳経家の一人。金剛智・善無畏がもたらした密教を唐に定着させた。が中国で作ったとされる。現在も真言宗・浄土宗・曹洞宗など各宗派でよく唱えられる。右の文で明忍は、『舎利礼文』を次のように三段に分けて解釈している。

『舎利礼文』

㈠ 一心頂礼 万徳円満 釈迦如来 真身舍利 本地法身 法界塔婆 我等礼敬 爲我現身 入我我入 仏加持故 我証菩提 …明忍が「自利」とする部分。(以下同様。)
一心に万徳円満し給へる釈迦如来の真身舎利を頂礼し奉るに、本地の法身、法界の塔婆なり。我ら礼敬し奉れば、我が為に身を現じて入我我入したまふ。仏の加持の故に、我、菩提を証す。
㈡ 以仏神力 利益衆生 発菩提心 修菩薩行 同入円寂 …「利他」
仏神の力を以て、衆生を利益し、菩提心を発さしめ、菩薩の行を修して、同じく円寂に入らん。
㈢ 平等大智 今将頂礼 …「惣礼」  平等の大智に、今まさに頂礼せんとす。

文義は、釈迦の舎利を礼敬して仏と一体になり、自らと他者を救い、全て平等であるという悟りの境地を得ることを讃える内容である。明忍はこの文義を思いつつ眠り、金色釈迦の好相を見たのである。またこの金色釈迦を見たことが明忍の心を鼓舞し、翌日『立願状』を書こうという思いを生じさせたと考えられる。

明忍は仏教再興のため、釈迦の根本に戻り、叡尊に学んで自誓受戒により持戒僧による僧坊を成立させ、継続して持戒僧を育成することを目指した。比丘となった僧は、最低五年間、師のもとで比丘として基本的な素養を備えなければならない。西明寺で五年間を過ごした比丘は、末寺に派遣されるなどして活動した。西明寺末寺には、自誓受戒僧に関わる霊験縁起が残る寺や、祈雨などで信仰を集めた寺もある。また独自に寺・僧坊を創った僧や他宗の僧の自誓受戒証明をした僧も存在した5252末寺に関しては前掲29 p9、10などに掲載。

明忍は、対馬に在りながらも同志と書簡をやり取りし、師晋海僧正の後援などの協力のもと、大乗菩薩僧を育成する僧坊の成立に努めた。また対馬での明忍の日常は、『曲記』に「饑うる時は則ち盂を擎て食を乞ひ、寒き時は則ち破れたるを補ひて形を蔽ふ。清苦自ら守りて惟だ道、是れ務む。里俗、風を欽んで以て真の苾蒭僧と為す。」とあるように、持戒聖の生活を貫いた。明忍所縁の対馬海岸寺『海岸寺縁起』5353浄土宗海岸寺の縁起。表⑮。昭和四年(一九二九)、古記録等書写し一冊に纏めた。原典成立等はそれが筆記される資料のみ分かる。明忍関連の記述も散見される。には、『曲記』の全文が記され、その「名士・貞女の墓」の項冒頭にも明忍について「法得の巨聖なり」と記されている5454他、対馬藩士の中川延良の聞書集『楽郊紀聞1』(江戸後期)には、明忍が母からの手紙を読まず、文捨川と後に呼ばれるようになった川に捨てていたとの伝承が記される。(〔平凡社東洋文庫307一九七七〕p332。また、『対馬島誌 全』(対馬教育会一九二八)「海岸寺」の項には明忍の墓に言及(p539)、「古碑及記念碑」の項にも「俊正明忍律師之塔 厳原町久田道萱の壇なる国有林内に在り元禄十六年の建立にして撰文は天竜寺道澄月湛和尚なり」とある(P446)。

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