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翠雲堂
第17回「涙骨賞」受賞論文 奨励賞

近世戒律復興運動の祖師・俊正明忍

対馬における奇瑞・臨終瑞相をめぐって

高松世津子氏

四、『明忍律師臨終瑞相』―自筆臨終瑞相―

以上のように明忍は、大陸での別受相承を現状では不可能だと判断、西明寺には帰らず対馬に滞在した。そのような中、病の兆候があり慶長十五年の夏、俄に悪化した。そして六月五日には晋海僧正に遺書を書き、七日、遷化の時を迎える。『仮名行状』には、明忍が常に『往生要集』を読んでいたと書かれる。

西明寺には遷化直前に自ら書いた臨終瑞相が軸装で残る5555前掲29 キュウ26「明忍律師臨終瑞相 槇尾常住」。

此の苦はしはらくの事あの聖衆の
紫雲清凉雲の中に若まし
ハりたらハいか程の㐂悦そや

繪に書たるハ万分か一八㓛德

池にハ七寳の蓮華樹

林にハ瑠琉の枝葉等

     也

『仮名行状』には、遷化の時「小杖を以て席を打ち、称名念仏して魂を安養にうつさんと乞ひ、時に忽に紫雲たなびき、宝花降り」ということがあったと説明、続けて「(明忍が)苦悩中に筆端を染む。其辞曰く」と書かれ、『臨終瑞相』とほぼ同内容を記す。そこには、

此苦はしはらくのこと、あの聖衆の紫雲淸涼雲の中に、若し交はりたらば、いか程の喜悦そや。絵に書たるは万分の一、八功徳池には七宝の蓮華、樹林には琉璃の枝葉等也。其の御真翰、当寺蔵庫にあり。此の雨華紫雲の事、随ひ逐ふ明全法師5656前述の道依明全。「自誓受同戒録」の第二回受戒者として掲載。の直語、並びに彼の国の俗上京の次に、此の寺に来て語る、智城5757慈雲智城(~一六六二)。西明寺第三回自誓受戒、九代衆首、正法寺住持。親聞せりと。

とあり、道依や対馬の住人が明忍往生の瑞相を実際に見たと語った、と書かれる。

さて、明忍が見た瑞相とよく似る極楽の描写が、『往生要集』、浄土三部経など多くの仏典に書かれている。例えば『阿弥陀経』5858浄土宗全書テキストデータベース J01-0052A12『仏説阿弥陀経』。においては、祇園精舎で釈迦が十大弟子の第一・舎利弗に極楽の世界の様相を話す場面で、

又舎利弗、極楽国土には七宝の池有り。八功徳水其の中に充満せり。池の底には純はら金沙を以て地に布けり。四辺に階道あり。金銀瑠璃玻瓈(はり)硨磲(しゃこ)赤珠瑪瑙を以て之を厳飾せり。池の中に蓮華あり。大きさ車輪のごとし。青色には青光あり、黄色には黄光あり、赤色には赤光あり、白色には白光あり。微妙香潔なり。

と書かれ、明忍臨終瑞相の内容は非常によく似ている。つまり、この自筆資料によって、明忍が遷化の時『阿弥陀経』などで説く極楽の情景を感得し筆記したことが伝えられ、明忍が浄土信仰を持っていたと理解されるのである。

しかしなぜ、真言を学んだ律僧が、極楽往生思想を持ち遷化瑞相感得を果たしたのか。これに関して、中国南宋の律僧元照(一〇四八~一 一 一六)に注目する。元照は南山道宣(五九六~六六七)による『四分律行事鈔』5959四分律をもとに戒律の行事を解説した道宣の名著。三巻。の注釈書『四分律行事鈔資持記』を著し、中世近世の律僧らに大きな影響を与えた人である。元照は著名な律僧である一方、『阿弥陀経』の注釈書である『阿弥陀経義疏』一巻を著して、浄土にも信を寄せていた。『曲記』では「生まれては律範を弘め、死せば安養に帰せん」という元照の言を引いている。この元照の影響もあり浄土信仰に傾倒し念仏行を行う律僧は多く存在した。浄土宗と深く関わった湛堂慧淑6060一六六八?~一七二〇。野中寺で戒山慧堅の証明により自誓受戒。浄土律開祖・霊湛性澂や天台宗の霊空光謙、義瑞性慶などの自誓受戒証明もした。の『律門西生録』には、往生を遂げたとされる中国の律僧二十四人と日本の律僧二十人を掲載、近世日本では明忍はじめ賢俊良永や慈忍慧猛ら自誓受戒の律僧らが記される。さらに天台宗の自誓受戒をした律僧、霊空光謙や義瑞性慶らも念仏を重視していた。

明忍臨終瑞相について、巷間から怪異談などの話題を集めた④『新御伽婢子』「明忍伝」でも、次のように伝えている。

(前略) 此終り給へる時一尺余(よ)の木(き)の太鼓(たいこ)の撥(ばち)やうの物にて畳(たゝみ)をたゝき臥(ふし)ながら念仏し給ひけるに。聖(しやう)衆(じゆ)の来迎(らいかう)を現(げん)に拝(をがみ)給ひ浄人に仰て其有様を記(き)せよとの給へ共此僧筆に堪(たへ)ざるにや書煩ひければ自(みづから)筆取て 

此苦(く)は暫(しはらく)の程 あの聖聚の紫雲(しうん)清涼(しやうれう)雲の中に若(もし)まじはりたらば。いかほとの嘉悦(きえつ)ぞや。絵に書たるは万分(まんぶん)が一。八功徳(くどく)の池には七宝の蓮(れん)花(げ) 樹林(じゆりん)には瑠璃(るり)の枝葉(しよう)等也 〔後略〕

このように、『臨終瑞相』とほぼ同内容で明忍遷化を記す仮名草子が版行された。編者の西村市郎右衛門は、僧などの知人または②③の版本により、明忍自筆臨終瑞相の存在を知り、西明寺の原本か①『仮名行状』、あるいはその写しを筆写したのではないかと思われる。当時、明忍の存在や事績が僧以外の人にも知られ刊行後にはさらに広く伝わったと言えよう。

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