PR
購読試読
宗教と文化の専門新聞 創刊1897年
墨跡つき仏像カレンダー2022
PR
翠雲堂
第17回「涙骨賞」受賞論文 奨励賞

近世戒律復興運動の祖師・俊正明忍

対馬における奇瑞・臨終瑞相をめぐって

高松世津子氏

なお「甲子」の年に、部数は不明だが明忍自筆臨終瑞相の石摺が刷られていた(表⑤)。これは明忍自筆原本の上に薄い紙を置き、上から筆跡を写し木版に彫って刷ったものである。近世の「甲子」は貞享元年(一六八四)、延享元年(一七四四)などで、貞享元年成立なら③『日本古今往生略伝』と④『新御伽婢子』の刊行翌年にあたる。しかし、⑤のあとがきの内容が⑥『曲記』の文に類似しているため、⑥の後の延享元年あるいはそれ以降成立の可能性もある。ただ、⑥の執筆者、黄檗宗月湛道澂の直指庵は、⑤の製作に関わった僧の住した神宮寺がある丹鳳城西北黄金閣下大北山村、つまり金閣寺の北西に比較的近く、当時、明忍顕彰の活動をする僧らが互いに交流していたとも考えられる。そのため⑥と同様の文が⑤に書かれた可能性もあろう。いずれにせよ、明忍真蹟の臨終瑞相を特別なものとして求める人々がいたことがうかがえよう。

ここで、各明忍伝における自筆『臨終瑞相』本文の引用・言及の仕方をみると、全十五編のうち十二編で往生奇瑞を自筆したとし、十二編で内容を引用、奇瑞に全く触れないものは二編のみである。その二編のうち⑬は塔銘であるため簡略化され、⑭は慈雲が自身の戒律復興の志を述べる主旨により省略したと考える。

また他の高僧往生伝は、権威付けや聖性の付与のため、えてして時とともに瑞相・霊験が書き加えられる傾向がある。しかし諸明忍伝の場合、前後の状況説明に相違はあれども、自筆臨終瑞相の内容自体が脚色・加筆されることはなかった。これが特色の一つと言える。その理由は、諸明忍伝の場合、臨終直前に現われた瑞相を自筆したことの切実性と、内容が極楽浄土の様相であることのもつ聖性を、書き伝える側が真に受容し「何かを付け加える必要のない事実として伝えようとした」ことによるものだといえよう。

笠原和夫は『近世往生伝の世界 政治権力と宗教と民衆』において多くの近世往生伝を紹介しているが、近世往生伝諸本には臨終瑞相が多数採録されているとわかる。笠原は、念仏の功徳を示すための悪人往生伝の例も紹介しているが、「極楽往生は容易でなく、人間的条件と宗教的条件が備わっているもののみが可能である」とし「宗教的条件は念仏が基盤となっているが、宗教生活を送るにあたって素直な気持ちで(至誠心)、正しき者の勧めに任せて(深心)、脇目もふらず一心に(回向発願心)、理想の世界(浄土)にむかって到達せよと教えている。」と説明する6161教育社歴史新書(一九七八)p92・93。

明忍の浄土教信仰や称名念仏の実践については資料が残らず不明だが6262西明寺には、密教で阿弥陀仏を本尊とする修法を書す『阿弥陀法』は蔵される。明忍の筆と思われる。(前掲29 25。巻子装。)浄土信仰に関する資料は残っていない。、戒律復興に自らの人生をかけることで、臨終瑞相を感得する宗教的・人間的境地に到達した、と考えるのが妥当であろう。さらに前述のように、「生まれては律範を弘め、死せば安養に帰せん」という元照の影響もあり、大陸渡航を断念せざるを得ない状況において病が深刻化した時、全存在を賭け浄土往生を目指した。その強烈な集中力によってこそ、死を前に自ら瑞相を筆記できたと考えられよう。

以上より明忍は、失意の中で早世したと受け取られるがその一方で、臨終瑞相を感得しそれを書き残したことにより、持戒の重要性と、後の人々の往生信仰の機縁となる実例を残すことができたと言えるのではないか。当時、戒律復興に取り組む持戒僧が現れたこと自体が非常に稀であり、さらにその持戒僧が対馬で志半ばに早世する時、臨終瑞相を見て自ら書き残したことは、僧俗いずれにも非常に大きな驚きをもって受け取られただろう。

明忍の臨終瑞相とその自筆の事績は、まず明忍示寂の四二年後に①『仮名行状』、五四年後に②『行業記』に記され、約七十年後に③『日本古今往生略伝』、④『新御伽婢子』に採録、版行された。③では収録伝中「明忍伝」が最も多くの字数で書かれ、④ではトリを飾るかの如く巻末に書かれる。また③から⑫はわずか十年ほどであり、各書中、明忍伝は他僧の伝に比して分量が多い。さらに、部数は不明だが⑤自筆石摺が作られたことからも、当時、明忍自筆臨終瑞相が重視されていたことは間違いない6363当時、綱吉母桂昌院による寺院援助や、隠元隆琦の黄檗山万福寺建立(一六六一)など仏教興隆の機運もあった。。明忍という律僧が世に出たことと、その臨終に瑞相が現れ自筆したことの二つの事績への思いが、戒律復興のみならず、浄土信仰の高まりを導き、多くの近世往生伝の版行6464近世一六〇〇年代の特に後半以降、古代の往生伝『日本往生極楽記』『続本朝往生伝』『拾遺往生伝』の復刻・再版の後、『日本古今往生略伝』『緇白往生伝』『新聞顕験往生伝』『現証往生伝』『勢州緇素往生験記』『随聞往生記』『遂懐往生伝』等が新たに編集された。(前掲61による)。にもつながったのではないか。

さて、明忍示寂後、道依が荼毘に付し、遺骨と遺品・遺言等の書状も持参して槙尾に帰寺した。『曲記』では、衆僧は「訃を聞きて哀慟して所親を喪するが如く」非常に悲しみ、また晋海僧正も「書に接して泫然として涙下す。和歌を綴りて之を悼む。」と書かれる。その歌については『仮名行状』に、「打見よと かねのしもくの筆の跡 まづ泣声ぞ もよをされける」とある。以上より、持戒僧坊を成立させる途上での盟主の死という喪失が、僧徒にとって非常に大きかったことが分かる。加えて明忍遷化の五日前にあたる六月二日、すでに同志の友尊も示寂、他の三人もその後二年足らずの内に、運命を共にしたかのように遷化した。以上より、持戒生活の過酷さも理解されるのである。

このエントリーをはてなブックマークに追加