PR
購読試読
宗教と文化の専門新聞 創刊1897年
お位牌Maker
PR
宗教文化講座 翠雲堂
第18回「涙骨賞」受賞論文 本賞
おおたに・ゆか氏=1978年、香川県生まれ。龍谷大文学研究科博士課程単位取得退学、博士(文学)。龍谷大特任准教授。東アジアの仏教戒律思想の変遷を専門とする。著書に『中世後期泉涌寺の研究』、論文に「越境する戒律問答」など。※経歴は応募時点

不殺生と自死

大谷由香氏

仏教では一般に「不殺生」を説く。律蔵においては教団追放となる重罪である波羅夷の第三に立項されて殺人が禁止されているし、多くの菩薩戒の中にも殺生を禁ずる項目が立てられている。自死はこの不殺生に抵触する行為であり、仏教では自死を禁じているとしばしば説かれる。

しかし戒律での禁止事項として挙げられる不殺生は、基本的に他の命を殺すことを誡めるものであり、所謂自死の行為がこれらの誡めの対象となっているのかどうかは曖昧である。李薇氏は律蔵の記述から自死について論じる先行研究を総括し、先行研究には仏教は自死を「罪ではない」と結論づけるものと、「罪である」と結論づけるものとのどちらもが存在している上、「罪である」とする論考もその罪の分類は一律ではないことを明らかにしている。李氏はそもそも律蔵に説かれる殺戒の条文には「自殺と他殺に対して、明確な区別意識がない」ことを示し、このことに起因して、様々の結論を提示する先行研究が多岐にわたって成立した現状を指摘した11李薇「律と自殺―断人命戒条文からの考察―」『南都仏教』九九、二〇一四

本稿では漢訳された仏典を素材として、東アジアの諸師たちがどのように釈尊の意図を理解していたのかということに着目したい。李氏の研究も含め、これまで仏教と自死をめぐる研究は、パーリ律を中心とした律蔵文献や阿含経典を基本素材として、なるべく釈尊在世に近い時代の仏教において自死がどう扱われたかを問うものが多い。東アジア仏教は、豊富な漢訳仏典を釈尊金口の仏説と信じ、内容を比較検討することで、釈尊時代の仏教を解明しようとしてきた歴史を持つ。律蔵文献そのものに曖昧な記述が存在することも、これら歴代の学僧たちに早くから共有されていたことであり、彼らによってそれらの曖昧さが各自に処理されてきた。彼らの研究成果を概観することによって、自死が東アジア仏教の中で、どのように理解されてきたのかを明らかにしたい。

1.律蔵にみる殺戒制定譚

まず律蔵において殺戒がどのように示されているのかを確認しておきたい。釈尊は自身の教団を運営するにあたり、問題が起こるつどルールを制定した。釈尊の死後まとめられたこのルールブックを律蔵という。

仏教教団は釈尊の滅後百年頃から分裂し、分派した教団がそれぞれに律蔵を伝持した。『異部宗輪論』によれば教団は二十部にも分派したと説かれるが、それらの部派が伝持した律蔵のうち、完全な形で漢訳されて東アジアに流布したのは、説一切有部伝持の『十誦律』(四〇四~四〇九年漢訳)・法蔵部伝持の『四分律』(四一〇~四一二年漢訳)・大衆部系部派伝持の『摩訶僧祇律』(四一六~四一八年漢訳)・化地部伝持の『五分律』(四二三~四二四年漢訳)の四律である。この他に義浄が翻訳した「根本説一切有部律」(七〇〇~七一〇年漢訳)が存在しているが、これは訳出年代が遅く、すでにそれまでに中国では上記の四律を基本とした研究が確立されてしまっていたので、中国ではあまり研究されることはなかったようである。東アジアの学僧たちは、基本的には四律の記載にもとづいて律蔵研究を行った。中国では、魏の嘉平(二四九~二五四)頃に中天竺の僧である曇摩迦羅によって受戒が行われたことをもって、中国における戒律の初めとする22道宣撰『四分律行事鈔』(六二六年成立):後有中天竺僧曇摩迦羅。此云法時。誦諸部毘尼、以魏嘉平年至雒陽、立羯磨受法、中夏戒律始也(大正四〇・五一下)。これは『四分律』によって行われたとも伝わっており33志磐撰『仏祖統紀』二九(一二六九年成立):南山律学 始祖曇無徳尊者〈法正。毱多尊者弟子。四分律主。南山所宗〉 二祖曇摩迦羅尊者〈法時。西竺沙門。始依四分十人受戒。遠承法正(大正四九・二九六下)、このため中国では『四分律』にもとづいた僧院生活が志され、『四分律』を中心として律蔵研究がなされた。この中国の律蔵研究態度は、東アジア全体で共有されている。

『四分律』に説かれる殺戒制定の因縁譚は、以下のようなものである。

あるとき釈尊が毘舎離の獼猴江あたりの講堂にいらっしゃった時のこと、釈尊は比丘たちに「不浄観」という観法を教授した。これは美醜や老若への執着を離れるために腐敗していく死体を観察する行であったため、比丘たちは自らの身体を嫌悪するようになってしまった。さてたまたまそこに刀を手にした勿力伽難提(もりぎつなんだい)比丘が通りかかった。希死念慮を抱いた比丘の一人は、彼に自らを殺害するよう懇願し、彼はその依頼を受けて比丘を殺害してしまう。

殺害後に血の付着した刀を川辺で洗いつつ、彼は深く後悔したが、そこに天魔が現れて「あなたは彼を涅槃に導いたのである」と囁いた。これを聞いた勿力伽難提は勇気づけられ、希死念慮を抱く比丘を次々と殺し、ついには一日に六十人を殺害した。

これに気づいた釈尊は、比丘を集め、不浄観の代わりに阿那般那三昧という瞑想法を伝授した。これは自身の出入の呼吸を数えて心を静める行である。その上で釈尊は殺人を誡める規則を制定し、比丘たちに以下のように説いたのである。

比丘よ、ことさらに自らの手によって人の命を断じ[てはならない]。刀を人に与えて、死の快楽を褒めたたえ、死を勧め[てはならない]。「ああ、あなたよ、酷い生活を続けようというのか、むしろ死んだ方が生きるよりましでしょう」と、このように思って、いろいろな方法で死の快楽を褒めたたえ、死を勧め[てはならない]。これを[犯した]比丘は波羅夷となり、共に生活することはできない44『四分律』二:若比丘、故自手断人命。持刀与人、歎誉死快、勧死。「咄、男子、用此悪活、為寧死不生」、作如是心思惟、種種方便歎誉死快、勧死。是比丘波羅夷、不共住(大正二二・五七六中~下)

条文をみてわかるとおり、釈尊は勿力伽難提に依頼して自死を遂げた比丘たちの罪については全く触れない。また自らが殺す対象についても明言がない。

つまり『四分律』殺戒説明部分では、自死という行為が他殺同様に「殺」に当たるのかどうかの判断はできない。同様に『摩訶僧祇律』も、自死を殺戒の範疇とするか否か曖昧である。

このエントリーをはてなブックマークに追加