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2024宗教文化講座
第18回「涙骨賞」受賞論文 本賞

不殺生と自死

大谷由香氏

2.東アジアにおける律蔵研究と自死

唐代には多くの『四分律』研究者が活躍した。『四分律』研究の最初期に活躍した法礪(五六九~六三五)は、四波羅夷のうち盗・殺・妄語の三戒は、必ず他人との関わりが重視されると説く。たとえば盗は相手に損害を与えるから重罪とされるのであって、自分の物を盗んでも損害はないから、釈尊は特にこれを規則内には収めない。同様に殺戒は他人を殺害した場合を対象とするものだから、自死は「無戒」であり、殺戒の範疇ではないと主張する1313法礪撰『四分律疏』二本:下之三戒、要在他境。盜以損主、所故以重。自盜、無別可損。故聖不制。(中略)殺他犯戒。故成犯境。自殺無戒。故非犯境。(新纂続蔵四一・五六五上)

後に南山宗の祖とされる道宣(五九六~六六七)は、『四分律含註戒本疏』(六三四年成立)において、すでに述べてきた自死をめぐる律蔵記載の矛盾を丁寧に紹介して、以下のように述べている。

殺の三例とは、自らが他人を殺すこと[で波羅夷を得る]、他人が自分を殺すこと[は自身の罪にはならない]、この二つは理解可能である。[しかし]自らが自身を殺すことは[罪となるかどうか判断が曖昧である]。㋒『善生経(=優婆塞戒経)』には「罪となる過失はない。他[人への]想が起きておらず、怒りの心が無いからである」とある。また『十誦律』には「人の命を奪って[も]波羅夷を得ないということがあるだろうか[という問いに対して]自らが[自らを]殺すことである」と言っている。ある人は[これを]解釈して「[自死に関しては]処遇を立てない。自らが[自らを]殺すことは罪ではない。命が尽きた時には、犯すべき戒は無い」と言っている。㋐[しかし一方で]また『五分律』によれば、[殺戒が]決定する前の段階である方便罪を[適用して]命が尽きた[場合も]偸蘭遮とする。これによって[自死の]処遇の義の顕れとするべきである。

㋐問う。律蔵にあるように自死して死ななかったなら偸蘭遮を犯す[ことになるのであれば]これは何の罪なのだろうか。答え。自ら殺す準備をした[が]縁が整わなかった[から]成就しなかった[ものの]戒[の適用]は生きているから[方便罪としての偸蘭遮が]決定したのである。もし死んでいたならば[自死準備という]因はあった[としても]処遇は上に説いたとおり[罪に問われない]。1414道宣『四分律含註戒本疏』:殺三例者、自殺他・他殺自、此二可解。自殺自身、如『善生経』、無有罪失。不起他想・無瞋心故。又『十誦』云、「頗有殺人不犯夷邪。謂自殺也」。有人解云「不立進趣。自殺無罪。以命断時、無戒可犯」。若依『五分』、結前方便命断偷蘭。拠此為言進趣義顕。問。如律自殺不死犯蘭。此何罪邪。答。方便自殺緣差不成戒在故結。若死有因同前進趣。(新纂続蔵三九・七九三下)

ここでは「殺」とされる行為について、①自分が他人を殺す、②他人が自分を殺す、③自分が自分を殺すの三つの分類がなされている。①自分が他人を殺すことは、もちろん波羅夷である。しかし②他人が自分を殺した場合には、自分には全く罪がない。③自分が自分を殺す、すなわち自死の場合には、すでに見てきたようにこれを㋐殺戒の範疇とみて自死未遂者に波羅夷未遂罪である偸蘭遮を適用するもの、㋑殺戒の範疇外とみて別途の罪を得るとするもの、あるいは㋒無罪であるとするものなどがあった。ここで道宣は、自死を無罪であるとする『優婆塞戒経』と『十誦律』の説を出した上で、ある人の意見として「[自死に関しては]処遇を立てない。自らが[自らを]殺すことは罪ではない。命が尽きた時には、犯すべき戒は無い」と述べる。しかし一方で、自死の既遂未遂を問わずに偸蘭遮とする『五分律』の説を出して、これこそ「[自死の]処遇の義の顕れ」とも紹介し、さらに加えて未遂により生き残った場合には偸蘭遮を得ることを明らかにする問答を続けている。この文章では道宣の真意がどこにあるのか分かりづらい。

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