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2024宗教文化講座
第18回「涙骨賞」受賞論文 本賞

不殺生と自死

大谷由香氏

しかし本稿で明らかにしてきたとおり、これら宗教者が抱える認識は、少なくとも東アジア仏教界で伝統的に醸成された見解ではない可能性が高い。現代に生きる宗教者の多くが、自死を否定的にとらえなければならないという呪縛にとらわれる要因は、おそらくは明治期の仏教者の自死に対する態度にあったと考えられる。小野嶋祥雄氏は、仏教は明治期に近代合理主義の洗礼を受けた思想家やキリスト教徒から、厭世主義の宗教であるという批判を集めており、これに反論する必要性から、自死が仏教の教義に反するものであることを主張する論考が多く提出されたことを指摘している。また昭和二年(一九二七)七月二四日未明に自死した芥川龍之介が仏陀は自死に肯定的であると記した書簡を遺したことで、この傾向はより強固なものになっていった。すなわち遺書「或旧友へ送る手記」には

僕は紅毛人たちの信ずるやうに自殺することを罪悪とは思つてゐない。仏陀は現に阿含経の中に彼の弟子の自殺を肯定してゐる。曲学阿世の徒はこの肯定にも「やむを得ない」場合の外はなどと言ふであらう。しかし第三者の目から見て「やむを得ない」場合と云ふのは見す見すより悲惨に死ななければならぬ非常の変の時にあるものではない。誰でも皆自殺するのは彼自身に「やむを得ない場合」だけに行ふのである。その前に敢然と自殺するものは寧ろ勇気に富んでゐなければならぬ2828『芥川龍之介集』現代日本文学大系四三、筑摩書房、一九六八

とあった。これを契機として、阿含経を基盤とした「仏教は自死を是認するか否か」の研究が網羅的になされたのである。有名作家の遺した文章は、美しく整っていて訴求力が高いからこそ、仏教学者は躍起になって「仏教は自死を肯定していない」ことを論じようとした。小野嶋氏によれば、このときに、釈尊が自らの弟子の自死を是認したのは、彼がすでに解脱を得るような円熟した比丘だったための例外的なことであり、仏教は原則的に自死を否定するもので、決して肯定しないという結論が競って導き出された2929小野島祥雄「近代仏教者の自殺観」(特別指定研究「大正新脩大蔵経の学術用語に関する研究―仏教における「善い生き方」の探求―」の一部)『仏教文化研究所紀要』五一、二〇一二。この見解は現在の仏教学研究でも踏襲されており、結果として「仏教は決して自死を肯定しない」という前提が宗旨を問わずに僧侶・信者間に共有されていく一端を担ったと考えられる。

「自死は命を粗末にする行為で、仏教の教えに反している」という言説は、ある意味で自死抑制の一面を有している。しかし遺された者にとって、こうした呼びかけほど残酷なものはない。自らの大切な人が自ら命を断ち、なぜ止められなかったのかと自らを責める中で、その大切な人が宗教的罪人のような扱いを受けてしまったならば、宗教はその人をより苦しませるものにしかならないだろう。

これまで述べてきたように、東アジア仏教界では、自死を大罪とはしないという理解が大勢であり、日本仏教で伝統的に支持されてきた説は、むしろこちら側である。また死んだ者を罪に問うても意味がないという姿勢は仏教に一貫した態度だと言えるだろう。自死によって身近な人を亡くした人に、あえて自死が仏教の教えに反しているなどと説くことは、かえって仏教の精神に反する態度と言えるのではないか。

図表5:本願寺派調査3図表5:本願寺派調査3

前に触れた本願寺派調査では、全体の二九%の僧侶が自死遺族からの相談を受けたことがあると回答しており、そのうち「〔故人は〕往生できたのか」と問われた件数は五三・五%にあたる三九七件、「〔自死を〕仏教では悪と考えるのか」と問われた件数は二七・二%にあたる二〇八件にのぼっている3030教学伝道研究センター現代宗教課題研究部会「本願寺「自死問題実態調査」の分析結果(5)」『宗報』 二〇〇九(平成二一)年十月号(第五一三号)。図表5は二五頁掲載の図3を転載。。自死遺族たちは「故人は往生を遂げた」「自死を仏教では悪とは考えない」と言ってほしくて僧侶に問うのだろう。遺族の心の痛みに寄り添った対応をすることは、仏教学上、決して誤りではない。

付記:本研究は科研費(20H01186・20H00012・21K18360)の助成を受けたものである。

資料略号
大正:『大正新脩大蔵経』
新纂続蔵:『新纂大日本続蔵経』
西全:『西山全書』

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