野崎廣義とその哲学 ―西田幾多郎がもっとも愛した早世の弟子―
西田幾多郎が京都帝国大学に来る前、金沢の第四高等学校で教鞭をとっていた頃の話である。ある日、西田を廊下に呼び出して、哲学を学ぶ志を述べた学生がいた。その後も哲学書を読んで感激するところがあれば、西田の家を訪れ、時を忘れて議論を重ねたという(NKZ13-172)。
この学生こそ、本稿で取り上げる無窓・野崎廣義である。西田が第四高等学校と京都帝国大学の両方で教え、その後は同じ大学で教壇に立った弟子であった。優れた才能を持ち、将来を嘱望されながら28歳の若さで心臓麻痺により突然死した。葬儀では西田が弔辞を読み、その早すぎる死を悲しんだ。
死後に遺稿が整理され、3年後『無窓遺稿』が私家版として制作された。さらに死後25年たって遺稿集の一部は『懺悔としての哲学』(弘文堂書房)と題して一般に販売された。野崎について書かれた追憶や論考は、これらの遺稿集に掲載されたものの他は、わずかな文章しか見当たらない。これら少量の資料が、この世における野崎の存在証明である。
本稿は、この野崎の事績と哲学に迫りたい。それは一つには西田の周辺や初期の京都学派について研究してみたいという狙いがある。また、野崎を通して大正時代の青年の思想を明らかにしたいという思いもある。しかしそれだけではない。
古来中国では孔子の弟子の顔回がそうであったように、若くして亡くなった才能を悼む風習があった。26歳で亡くなったとされる唐代漢詩家の李賀は、鬼才と呼ばれて尊重された。「年年歳歳、花相似たり、歳歳年年、人同じからず」という詩を残した唐代の劉希夷も28歳で亡くなったと伝わる。
日本にも源義経(享年満31、以下同)の判官びいきのように、志半ばで亡くなった人に対して強く感情移入する文化がある。幕末の動乱で亡くなった橋本左内(25)、吉田松陰(29)は、人物と共にその詩文も人気が高い。近代の作家・詩人ならば、芥川龍之介(35)、石川啄木(26)、金子みすゞ(26)、太宰治(38)、樋口一葉(24)、宮沢賢治(37)など、夭折しつつもその作品が読み継がれる人がいる。
フランスでは、若くして亡くなった哲学者を尊重する文化があるという。アルベール・ロトマン(36)、ジャン・ニコ(30)、シモーヌ・ヴェイユ(34)は高く評価されており、フランス国立科学研究センターはその名を冠した「ジャン・ニコ賞」を年1回発表している。ヴェイユについてはフランスのみならず、日本でも多くの研究がある。
では、日本の哲学者に対しては、どうであろうか。夭逝した日本人哲学者を顕彰する研究は、活発であるとは言い難い。われわれは、若書きのままで終わった日本人哲学者の才能を尊重することができないのであろうか。二十代で亡くなった野崎の事績と哲学を分析することで、これに挑戦してみたいというのが、本稿の狙いである。