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野崎廣義とその哲学 ―西田幾多郎がもっとも愛した早世の弟子―

坂本慎一氏
野崎廣義の略歴

まず、野崎廣義の略歴についてまとめておきたい。弟の野崎三郎が書いた「亡兄の略年譜に代へて」(Nb210~224)11序文で述べたように、野崎の遺稿集は小笠原秀実編集兼発行『無窓遺稿』(1920年)と野崎廣義『懺悔としての哲学』(弘文堂書房、1942年)がある。旧版に掲載された「哲学概論講案」(全166頁)が新版では割愛され、新版では旧版の序文とは別に新たに西田が序文を書いたほか、野崎三郎「亡兄の略年譜に代へて」、務台理作と高坂正顕の「後記」が付加された。本文では旧版をNa、新版をNbとし、両方に記載がある場合は煩雑を避け、入手しやすいNbの頁数のみを記述した。つまり、Naにしか記載がない「哲学概論講案」のみ、Naの表記を用いることとした。と『智山学報』に掲載された「本学教授文学士故野崎廣義先生略伝」(CG2-52)が、その資料と言える。

野崎は明治22(1889)年4月8日、富山県射水郡七美村野寺(現・射水市七美)で農業を営む野崎與右衛門の次男として生まれた。家長は代々與右衛門を名乗っており、地主と思われる。明治27(1894)年の初夏に父が早世したため、母のきいは三男の三郎だけを隣家に預け、残る三人の息子を育てた。家の宗派は真宗大谷派であった。

中学三年までは海軍志望であったが、目が悪かったため、明治39(1906)年9月、金沢の第四高等学校独法文科に入学した。キリスト教青年会の寄宿舎に下宿し、洗礼も受けたが、やがてキリスト教から離れたという(Nb199、216)。

第四高等学校では西田幾多郎に教わっており、弟の三郎に宛てた手紙では「人は読書の傍ら瞑想が必要である。読書万能主義を御本尊として居ると独創的思念がとぼしくなる」(Nb215)と書いている。西田は明治30(1897)年の日記の欄外に「他人の書をよまんよりは自ら顧みて深く考察するを第一とす 書は必ず多を貪らず」(NKZ17-3)と書いている。既に西田から影響を受けていた様子を読み取ることができる。

大学では哲学を専攻したかったが、実叔母の夫が弁護士だったこともあり、明治42(1909)年9月、東京帝国大学独法科へ進学した。意に反した進学だったため、鬱々とした日を送っていたという。しかし一年後「西田先生が京都大学の倫理講座を担任さるる由是亦一の快事に候」(Nb217)と述べ、京都帝大へ転学して再び西田に師事した。

学生時代の日記に野崎は「西田先生を訪れた。愉快に二時間を談じた。先生は尊敬するに足る思想家であると云ふ印象をいつも乍ら今日も受けた」(Nb123)と記している。一方で「私には友達なんて無用である」(Nb142)とか、「交友を絶って独り考へ乍ら、独りの天地を造つて見たい。此頃は友と語つて価値を見出したことはない」(Nb145~146)と記していた。

大正2(1913)年7月に京都帝大を卒業し、内藤湖南の紹介で同年9月から大阪朝日新聞に勤めることになった。同時に、親戚の紹介と思われる縁で、郷里に近い富山市出身の稲垣のぶと結婚した。このころからライプニッツ『モナドロジー』の「モナドには窓がない」にちなんだ「無窓」を号とするようになった。

記者生活は半年余りで終わった。大正3(1914)年2月14日の西田の日記には「夕頃野崎来る、朝日に留ることにせりといふ」(NKZ17-333)という記述があるので、野崎も辞めるべきか直前まで迷ったようである。退職後は京都帝大大学院に進学し、同年9月から新義真言宗智山派私立大学智山勧学院(智山大学)22大正3(1914)年4月開学の新義真言宗智山派私立大学智山勧学院は、京都市の智積院の境内に設けられた(文部省告示第45号)。昭和4(1929)年4月に東京府北豊島郡石神井村(現・練馬区上石神井)に移転して智山専門学校となり(文部省告示第193号)、昭和18(1943)年に大正大学に合流した(官報上は昭和19〔1944〕年9月、文部省告示第645号)。で講師となった。智山大学は新義真言宗智山派(現・真言宗智山派)の最高学府としてこの年の4月に開学しており、職をあっせんしたのは前年の10月22日から大学の設立にかかわっていた西田だと考えられる(NKZ17-325)。

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