野崎廣義とその哲学 ―西田幾多郎がもっとも愛した早世の弟子―
大正3(1914)年12月発行の『智山学報』創刊号には「本学院職員表」に「講師 哲学史、論理 文学士 野崎廣義
」(CG1-122)と記載してある。智山大学における西田と野崎の講義の様子について、『智山学報』は次の様に紹介している。
「(西田)博士は人も知る非常な篤学者で我が思想界の重鎮である、先生の一言隻句はこれみな人格の迸しりで、学生は先生の講義に接する時は自から襟を正し、いつも幽玄の神秘に導かれて酔はされるのである、また野崎学士は論理学及び西洋哲学史を講じて居られる、先生は頭脳明晰、その創造的思索はつねに吾等に神秘の謎を解いて霊妙の境に引き入れて下さる
」(CG1-520)
講義の内容が「幽玄の神秘」「霊妙の境」と紹介されているのは、この二人だけである。この二人の弟子の中から、後に智山派で「双璧」と称された高神覚昇と那須政隆が育ったのであった。高神は「西田博士及野崎先生を哲学の教授として居た智山大学は奇しき因縁とも云うべきであろう
」(TKS1-243~244)と述べ、自分たちに学派の如きまとまりを意識していた。
野崎が突然死した様子について『智山学報』は次の様に述べている。
「大正六年六月十七日午後八時、聖護院附近を散策中熊野神社にさしかゝるや、同伴の友の肩を軽打する事二回、一語を発する暇すらなく心臓麻痺の為路上に倒れ、溘焉として永眠さる
」(CG2-52)
享年は満で28であった。西田の日記によれば、この日の京都は雨だったという(NKZ17-351)。聖護院西町には、第四高等学校と京都帝大の上級生で、野崎の遺稿集を編纂した小笠原秀実(後に仏教大学教授)が住んでいた33小笠原秀実については、次の伝記を参照した。八木康敞『小笠原秀実・登――尾張本草学の系譜』(リブロポート、1988年)。。「同伴の友」とは、後に龍谷大学教授となった中性慶であった(Nb222)。
西田は翌日その死を知った。同年6月20日の午後、京都市内の常願寺(真宗大谷派)44西田は日記に「常願寺」と書き(NKZ17-352)、高神は「浄願寺」(TKS1-241)と記している。京都市内の真宗大谷派の寺院として現存するのは「常願寺」(京都市上京区北横町)なので、ここでは西田の表記が正しいと判断した。で葬儀が営まれ、西田が弔辞を読んだ(NKZ13-171~172)。前年まで智山大学で「講師」であったが、『智山学報』の死亡記事は野崎を「教授」と紹介している(CG2-52)。
西田は遺稿集の序文に「君の記憶は深く我心の歴史の中に織込まれて、我といふものより除き難くなりぬ。悲しからん時も、嬉しからん時も、君の記憶は長く我魂の竪琴に一つのメロディーを奏づるなるべし
」(Nb序1)と書いた。野崎の哲学とはどのような内容だったのか。