野崎廣義とその哲学 ―西田幾多郎がもっとも愛した早世の弟子―
野崎は大正6(1917)年6月17日に亡くなった。その前の晩に野崎が徹夜をして書いたのが絶筆「懺悔としての哲学」であった。しかし野崎は約半年前の大正5(1916)年12月13日付けで、同じ題の原稿を書いていた。西田はこの経緯を次のように説明している。
「この文は君が昨年の暮、朝日新聞の為に書いたものであるが、意に満たずとして発表せなかったものである。併し今度『哲学研究』の為にこれを書き直すといふので、死去の当日、夜の一時頃より書き出して朝までに七八枚書き直したさうである
」(Nb184)
野崎は旧稿の「懺悔としての哲学」の何が不満であったのか。なぜ同じ題で新稿を書き直そうとしたのか。まずは「懺悔としての哲学」の旧稿と新稿の違いから、野崎の哲学に入って行きたい。
旧稿の「懺悔としての哲学」では「ドストエフスキーの『罪と罰』に於けるラスコルニコフ」(Nb7)について紹介し、殺人を犯して悔い改めようとした主人公と野崎自身を重ねようとする。野崎は「自己のこれまで辿った生活を新生の光に照らして見るならば、すべてが罪悪であり、虚偽である
」(Nb8)と述べている。哲学的に考えることは「たえず自己の罪を悔ゆる過程である。懺悔がないなら哲学がない」(Nb9)と述べ、『罪と罰』から言葉を引きつつ、「この決して許さないところに真理の大慈大悲がある
」(Nb11)と主張した。
旧稿では「大なる十字架を負ふ
」(Nb14)と述べるなど、キリスト教的なモチーフが用いられていて、自らの原罪を意識してひたすら懺悔しなければならないという姿勢が濃厚である。全般的に文学的な筆致であり、主張そのものに特に大きな牽強付会や独善を感じさせるものではない。しかし、一応は完成した約5,000字の旧稿を、野崎は自ら没にしたのであった。
絶筆となった新稿は未完のままであり、約2,000字の分量で終わっている。旧稿で目立っていたドストエフスキーに関する言及はない。野崎が懺悔すると言っても、『罪と罰』の主人公のように殺人を犯したほどの罪があるわけではないのだから、自らと重ねるのは不適当と判断したのであろう。
旧稿では原罪ゆえにひたすら懺悔を続けるのみであったのに対し、新稿では苦しみぬいた末に、何か一定の解決へ道筋が見えたように述べた。「自己の受用しないところのものが却って自己を追及して止まないことがあるといふことを悟つた
」(Nb19)という「ディレンマ」を強調して、新稿は中断している。急逝しなければ、これからさらに深い分析に入る予定であったことが想起される。
旧稿は、ドストエフスキーに仮託していたこともあって文学的表現だったが、新稿は一定の論理を読み取ることが出来る。懺悔の末に「ただのちつぽけな人間」(Nb17)であった自分は「運命」(Nb18)を受け入れて、解決に向かっていく様子であった。
野崎は亡くなる約2カ月前、日記に「二十代の記念論文として『論理的活動の本質』に就て考察し見たきものである
」(Nb177)と書いていた。では、野崎が考えていた論理とは何であったのか。