野崎廣義とその哲学 ―西田幾多郎がもっとも愛した早世の弟子―
西田は『善の研究』(1911年)の序文で次のように書いている。
「数年を過ごして居る中に、いくらか自分の思想も変り来り、従つて余が志す所の容易に完成し難きを感ずる様になり、此書は此書として一先づ世に出して見たいといふ考になつた
」(NKZ1-3)
『善の研究』を出版する前から、西田にはあるテーマが見つかり、それが容易に完成しない見通しだったと述べている。そのテーマとは「自覚といふことは、如何にして可能であらうか
」(NKZ2-20)ということであった。別な言い方をすれば「我は我である」とは、どのようなことなのか、西田は「甲は甲である」という論理から考えようとした。これをテーマにしたのが『自覚に於ける直観と反省』(1917年)であり、いわゆる「悪戦苦闘のドッキュメント」(NKZ2-11)である。
西田は自覚の問題をフィヒテやリッケルトから読み取った。なぜ西田は、ここに来てフィヒテやリッケルトが気になりだしたのか、今のところあまりよく分かっていない。現在、初期西田の遺稿の整理が続けられており55西田の手稿の整理について浅見洋・中島優太・山名田沙智子編『西田幾多郎未公開ノート類研究資料化 報告1(2017)』(石川県西田幾多郎記念哲学館発行、2018年)があり、以降順次刊行されている。初期西田の未整理資料の刊行であり、今後の進展が待望される。、今後の発見によっては、経緯が判明するかもしれない。
そしてこの問題は、野崎も共有していた。野崎は次のように言っていた。
「吾々がA is Aと云ふ場合には単なるTautologyを語って居るものではない。若し単なるTautologyならばAだけで沢山である。然らばA is Aなる判断に意味のあるのはどこかと云ふに、それは純粋活動の内面発展、自己完成の機能を表はしてゐるからである
」(Na136)
野崎は「純粋活動」という概念を提示する。「A is A」は、「内面発展」であり、「自己完成」へ向かう活動だと述べる。「純粋活動」とは、どうやら仏教風に言えば上求菩提のことのようであり、それを端的に示したのが、「A is A」なのである。
もう少しかみ砕いて言えば、迷える「主語のA」は、悟れる「述語のA」を目指して「純粋活動」をしていると表現できる。野崎はこれを「絶対活動」(Na117)とも述べていた。野崎のいう「論理」とは、この「絶対活動」を説明したものである。
以上を踏まえて野崎は、哲学の最後の結論は「俺は俺だ」(TKS1-239)と述べたという。野崎の思想をまとめて、智山大学で師事した高神は次のように説明した。
「哲学の真生命は俺は俺だと信ずるにあると叫んだ先生の言葉は今も尚深く、自分の胸裡に印銘されて居る。個人的な俺は最早や茲に於て普遍的なる俺である。有限差別なる果敢ない俺は、是に至りて無限絶対者と握手するに至るのである
」(TKS1-246)
ただ、野崎の場合は、主語のAは述語のAの一部なのか、それとも同じと見て良いのかがまだはっきりしていなかった。野崎の主張を紹介した高神の「握手するに至る」という表現も、どのような状態を指しているのか不明である。この意味では、野崎が残した文章の中にはっきりとした解決が記されているとは言い難い。西田は、自身が解決を得なかったことについて、「幾多の紆余曲折の後、余は遂に何等の新らしい思想も解決も得なかつたと言はなければならない。刀折れ矢竭きて降を神秘の軍門に請うた
」(NKZ2-11)と表現した。西田がこの敗北宣言を書いたのは、大正6(1917)年6月7日(NKZ17-351)であり、その10日後に野崎は亡くなったのであった。