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野崎廣義とその哲学 ―西田幾多郎がもっとも愛した早世の弟子―

坂本慎一氏
野崎の慧眼

野崎は亡くなる半年ほど前の日記に次のように書いていた。

本年中に修めたいものは数学物理学論理学である。此等のものを学ぶは何も究極の目的ではない。究極の目的は神である。神と強く固くつながる為にこれ等の精密科学を学ぶのである」(Nb172)

 野崎は、数学の研究に余念がなかった。西田によれば、亡くなる数日前に「コバレフスキーの微分積分」66「コバレフスキーの微分積分」とは「G. Kowalewski, Einführung in die Determinantentheorie; Mit einer Historischen Übersicht」であると考えられる。この書は山下正男編『西田幾多郎全蔵書目録』(京都大学人文科学研究所、1983年)262頁に記載がある。基本的には微積分の教科書であるが、巻末にライプニッツとニュートンへと至る数学史が掲載されており、あるいはこれが目当てだった可能性もある。を返しに来たという(Nb183)。それ以前にも西田から、ホブソン『実変数関数論』を借りており(Nb155)77野崎の日記には「Hobhouse, Theory of real function」と記してあるが、「E. W. Hobson, The theory of function of a real variable and the theory of Fourier’s series」の間違いであると判断した。この書も前掲、『西田幾多郎全蔵書目録』90頁に記載がある。、京都帝大の数学者であった園正造の研究発表も聞いていた(Nb175)88野崎の日記には「園田助教授」と記してあるが、「園(正造)助教授」の間違いであると判断した。。「数学物理学論理学」を学んだ先に「神と強く固くつながる」ことが可能であると信じたのである。日記には「徹宵数学をやる、面白し面白し」(Nb159)と書き、「数学を学ぶ講義の準備になかなかかかる」(Nb153)とも書いているので、智山大学の「論理」の授業では数学も教えていたと考えられる。

こうした合理的思考への関心に由来すると思われる一つの特徴が、野崎の主張にはあった。それは文法への着眼である。

野崎は次のように言った。

哲学と云ふものは常にGrammatical particlesに注意を向けてゐるものである。With, near, next, like, from, toward, against, because, for, though, my ― ― 之等の言葉はintimacy 及びinclusiveness の遞高的順序に並べられたconjunctive relations のtypeを示しているのである」(Na81)

以上の引用のうち、「之等の言葉は」以降の後半は意味が分かりにくい。野崎の手稿はこのように、日本語、英語、ドイツ語が混在しており、そこに野崎の「若書き」を見てよいであろう。「intimacy(身近さ)及びinclusiveness(包括性)の遞高的(次第に高くなる)順序に並べられたconjunctive relations (接続的関係)のtype(型)」とは要するに、接続詞など不変化詞の内容を言おうとしていると考えられる。つまり野崎は「哲学とは常にGrammatical particles(不変化詞)に注意を向けているものであり、なぜならそれは概念の順序や接続を示しているからである」と言いたいようである。野崎は他にも、デカルトの「我思う故に我あり」について、「『故に』と云ふ連絡語が採用される」(Na45)と述べていた。

西田の『自覚に於ける直観と反省』(1917年)では、文法への着眼はなかった。たとえば、「『甲は甲である』といふ場合の後の『甲』が前の『甲』を知るのではない」(NKZ2-99)と述べており、主語と述語という言い方はしていない。これ以前の著作である『善の研究』(1911年)でも「主語」「客語」という単語は、ほぼジェームズの思想を紹介する箇所で見出されるのみである。

野崎の死後、西田は『意識の問題』(1920年)で「『甲は甲である』と云ふ自同律の判断に就て見ても、その『主語甲』と『述語甲』との対立の状態が識別の状態」(NKZ3-37)と述べるなど、文法に着眼するようになった。文章の内容の論理だけ見ていた西田が、言語を構成する法則についても言及するようになったのは一つの躍進であった。しかし、西田自身はなぜその躍進が可能になったのか、特に説明していない。

やがて西田は、いわゆる「場所」の論理を展開することによって、「自覚といふことは、如何にして可能であらうか」(NKZ2-20)という問題に一定の解決を得た。『働くものから見るものへ』(1927年)が、「場所」の論理を初めて掲載した著書である。脱稿の直前に、日記にわざわざ「Wiedergeburt」(NKZ17-438)、つまり「生まれ変わった」とドイツ語で書き、「いかなる腐木にも新しい生命の芽をふくことができる。けふ最楽しかりし」と述べ、赤鉛筆で太陽のようなマークまで描いて、その解決を喜んだ。

西田の「場所」の論理は重厚かつ難解な思想なので、ここでその詳細を論ずることはできないが99筆者は西田の「場所」の論理とは、曼荼羅に由来する思想だと分析したことがある。坂本慎一「西田哲学の『場所』と高神覚昇――野崎廣義と共に――」『比較思想研究』第47号(比較思想学会、2020年)。、本稿にとって重要な点は、西田が次のように言っている点である。

私が私であるといふ自覚は既に場所の意義を有する。私が私に於てあることを意味するのである」(NKZ5-62)

このうち「於て」は西田が場所の論理を説明する際、こだわった表現である。西田は「自覚の意識の成立するには『自分に於て』といふことが附加せられねばならぬ」(NKZ4-127)とか、「やはり『於てある場所』といふ如きものがなければならぬ」(NKZ4-222)と述べた。「於て」は動詞「おく」の連用形に接続助詞「て」の付いた「おきて」のイ音便であるが、西田は不変化詞のように使っており、ドイツ語の「in」と同じ意味で捉えていたと考えられる。「in」はGrammatical particles(不変化詞)の一つである。

大正6(1917)年6月20日に野崎の葬儀が行われ、22日と23日、西田は「野崎の件につき」(NKZ17-352)小笠原秀実と面会している。この時点から西田は野崎の遺稿を繰り返し読んだと考えられる。その遺稿の中にあった「哲学と云ふものは常にGrammatical particlesに注意を向けてゐるものである」(Na81)という主張は、それまでの西田に全くなかった発想であった。西田は野崎の慧眼から、やがて「於て」の手掛かりを得た可能性が考えられる。

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