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野崎廣義とその哲学 ―西田幾多郎がもっとも愛した早世の弟子―

坂本慎一氏
西田の「養殖」

藤田正勝は京都学派の特徴について、「共通の問題をめぐって議論し、相互に大きな影響を与えあった。その関係は、決して師から弟子たちへという一方向的な関係ではなく、むしろ双方向的な関係であった1010藤田正勝『人間・西田幾多郎――未完の哲学』(岩波書店、2020年)219頁。と言っている。西田は弟子たちの思想から思索の手掛かりを得ることもあったと考えられる。

西田が弟子から学んだということは、次のように考えられる。先に述べたように、西田は新カント派の研究から「我は我である」とは、どのようなことなのか、「甲は甲である」という論理から考えようとした。野崎はその問題を共有し、自分なりに温めた結果、文法に着眼して考えることを思いついた。西田は野崎が温めた思想を取り入れたのである。

つまり、西田が弟子から取り入れた思想は、西田が教えた内容を弟子が時間をかけて育てたものだった場合も考えられるのである。それはあたかも、西田の思想の一部を西田に代わって弟子が熟成させたかのような形だったとも言える。

もし、まったく縁もゆかりもない人の思想を自らの思想に取り込もうとすれば、自分の思想と取り入れた思想の間には、木に竹を継いだような違和感が残るものである。思想家は、その違和感がなくなるまで、相当な時間をかけて自分の思想と取り入れた思想を練り合わせなければならない。しかし最初から西田の中にあった思想を弟子が取り入れて熟成させ、それを西田が取り込んだのであれば、西田の思想と取り入れた思想の違和感は少なくて済む。弟子から取り入れた思想を西田の思想に馴染ませるのに、あまり時間はかからない。

弟子に思想を授け、弟子が育てた思想をまた取り入れることは、あたかも稚魚をいけすに放ち、成魚に育ってから収穫することにも似ているので、ここではとりあえず「養殖」と呼んでおこう。西田はこの「養殖」が巧みであったと言える。後年になるに従って西田の哲学は加速度がついた様に重厚さが増していった。それは、この「養殖」の成果が次々と得られたという面があったと言える。西田が晩年の5年間で論文に引用した弟子の名は、久松真一(NKZ10-473)、木村素衞(NKZ 10-236)、高坂正顕(NKZ 10-192)、高山岩男(NKZ 10-210)、下村寅太郎(NKZ 10-417)、三宅剛一(NKZ 11-120)、務台理作(NKZ 11-450)、野田又夫(NKZ 11-151)、澤瀉久敬(NKZ 11-307)、山内得立(NKZ 10-357)が挙げられる。名前を明示しているだけでこれだけの人数である。ここでこれらの引用一つひとつを検討する余裕はないが、西田が弟子に学ぶ姿勢を持った思想家であったことは明白である。西田が人の何倍も思考することができたのは、一つにはこの「養殖」に秘密があったと考えられるのである。

通常は、西田という優秀な哲学者がいたので、その学識を慕う学生が集まり、京都学派が形成されたと考えられている。しかし、それで終わりではなく、西田はその集まってきた学生に「養殖」を施して、自らの哲学をさらに重厚にした。重厚になった西田哲学に憧れて、さらに多くの学生が集まった。また、西田に影響を与えることができた弟子は、引用された自分の名を見て、さらに研究意欲が増したことであろう。西田哲学と京都学派は「養殖」を通じた循環によって成長していったと考えられるのである。

西田は、最初の野崎の遺稿集『無窓遺稿』の跋で論文「懺悔としての哲学」について、「余はこの文を読むにつれてその真摯なる態度を思ひ自ら胸迫り涙落つるを禁じ得ない」(Nb185)と書いた。昭和17(1942)年に発刊された遺稿集『懺悔としての哲学』の序文では、改めて野崎の文章について「真摯なるものは何時までも人の心を惹くであらう」(Nb新序1)と書いている。西田は、野崎の文章を何度も読み返していた様子である。文法への着眼も、ここで気づいたであろう。第四高等学校時代からの弟子で、西田と同じ問題を追っていた野崎こそ、西田に影響を与えた最初の弟子であった可能性が高い。文法の重要性と共に「養殖」の有効性を初めて西田に気づかせたのは、野崎だったと考えられるのである。

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