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野崎廣義とその哲学 ―西田幾多郎がもっとも愛した早世の弟子―

坂本慎一氏
野崎が死の直前に悟ったもの

ここでもう一度、野崎の絶筆「懺悔としての哲学」(新稿)に戻ろう。

野崎は「懺悔」の内容として「私は眼に見えるすべての問題に於て、不可思議を見ることができなかったのである」(Nb16)と述べた。何かが見れども見えずといった状態だったことを「懺悔」している様子である。さらには自分の「運命」(Nb18)を何度も強調していた。

重要な部分を少し長めに引用すると、以下のとおりである。

私自身に姿を現はした運命は、山の中からでもすべりでて来たやうな冷酷なものであつた。その魂に突き当る鋭さには、あの花やかな光も輝もすつかり消えてしまつた。私の魂は、何かな暖いものを、何かな光つたものを、盲滅法にあたりを撫で廻はし、狂ひ廻つたが、やはり、はてしもない暗みと冷たさがあるばかりであつた。私はかやうにして、初めて不可思議の世界の扉に手を掛けたのである。兎に角私の面と面を接したものは、その姿の明確であると云ふ点から云つたなら、むしろ深刻であると云つた方が適切である。何となれば、暗やみそのものも冷たさそのものも観念や表象の鏡に写つた反映ではなく、力そのものであつたからである。ところが、これまで自己の対象となり、問題となつたところのものを握りしめなければ承知できなかつた私は、この明確過ぎる程明確な問題の前を、絶えず逃げ去らうとあせつてゐたのであるが、あせればあせる程、運命はその姿を明確にして、即ち、暗黒と冷たさはいよいよはげしくなつて来たのである。私はここに、未だかつて自覚しなかつたディレンマにはまつたのである。私は初めて、明確な認識必ずしも自己の受用するものではなく、自己の受用しないところのものが却つて自己を追及して止まないことがあるといふことを悟つた。但し、ことがあるといふ言葉は特称的表現であるけれども、生活その時その場合にあたつては、それは全称的の力でもつて現はれ来るものである。力として現はれ来た斯様なディレンマの前には、只不可思議、それも死ぬるばかりの不可思議を感ずるだけである」(Nb18~19)

 以上の文章は、核心を明示するのを避けているようにも見える。この後に核心を示して、読者の理解を得る予定だったと考えられる。あるいは、これに続いて書こうとしていた内容について、西田は小笠原や中から概要を聞いていた可能性もある。以上を踏まえ、ここではこの文章を、少し大胆に読解してみたい。

まず野崎の言う「運命」とは、智山大学で教壇に立ったという自分の「運命」について述べたと理解することもできる。智山大学は、新義真言宗智山派総本山智積院の境内にあった。当時の教職員は肉食妻帯をしないのが普通であって、学生は全員出家僧であり、しかも全寮制という出世間的な雰囲気の大学であった1212坂本慎一「近代真言宗の教学と西田哲学――那須政隆を媒介にして――」『比較思想研究』第46号(比較思想学会、2019年)参照。。西田や野崎のように他宗の在家の講師はわずかである。野崎は、この男子修道院の様な大学に3年間通ったのであった。

そして野崎は、西田と共に追究した「自覚といふことは、如何にして可能であらうか」(NKZ2-20)という問題の解決やその糸口を、真言密教の中に見つけてしまったのではないか。真言密教という「自己の受用しないところのもの」、つまり自分が信仰しているわけではない宗教が、自分の求めていた問題の答えを持っていた。その事実は「自己を追及して止まない」。「私自身に姿を現はした運命は、山の中からでもすべりでて来たやうな冷酷なものであつた」とは、西洋哲学を真剣に学んでも結論が出なかった問題が、真言密教と接することで答えが見えてしまったという「運命」は、ある意味「冷酷」な結果であったという意味であろう。それまでの野崎は、いつも目にしている真言密教が答えを持っているという「不可思議を見ることができなかった」のである。「生活のその時その場合にあたつては、それは全称的の力でもつて現はれ来る」、つまり講師として智山大学に通っているという野崎の「生活」において、その事実が「全称的の力でもつて現はれ来る」。それは「只不可思議、それも死ぬるばかりの不可思議を感ずる」のであった。

それは言い換えれば、鎌倉新仏教中心観が全盛であった近代日本において、遅れた迷信のように思われていた密教が、野崎には重厚な思想だと分かってしまったということである。しかも「自覚といふことは、如何にして可能であらうか」(NKZ2-20)という問題は、最新の西洋哲学とも言うべき新カント派に由来する問題であった。真言密教は古くから同様の問題を論じて来たという事実は、欧米の文物が全て日本より進んでいて、日本人はそれを追いかけるのみだという態度にも修正を迫る事態である。しかし、そんな常識外れなことがありうるのかという「未だかつて自覚しなかつたディレンマ」に野崎は陥ったと考えられるのである。

野崎が絶筆の後に書こうとした内容とは、「ディレンマ」に戸惑いつつも、真言密教の即身成仏を自分なりに言い換えて、「迷える小我は悟れる大我になれる」という高神と似た主張だったと考えられる。「俺は俺だ」について、「俺は仏だ」という方向で説明しようとしたはずである。エリウゲナをうまく補足材料に使うとすれば、神と被造物の結合性に関する思想を自分なりに拡大し、即身成仏との類似性を見出そうとしたと予想できる。

野崎は、年齢が近い弟子であった高神ら真言密教の僧侶から学んでいた可能性があった。弟子に学ぶことの大切さを最初に覚えたのは、西田ではなく野崎だったのではないか。野崎の若さが長所になったとすれば、年齢のあまり変わらない弟子から謙虚に学ぶ姿勢を持ち得たことである。西田は野崎を悼む中で、弟子に学んでいた野崎の真摯な姿勢を知ったはずである。そして、故人の事績を追う形で西田は弟子に対して「養殖」を始めた。こうして近代日本の最も偉大な哲学である西田哲学は、西田の強靭な思索力と野崎の後輩たちによって形成されていったのである。

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