「用いる」ことをめぐる柳宗悦の思想 ―「仏教美学」との関わりに注目して
同時にここで注目されるのは、エッセイ「疵の美」の中で、柳がこれらの「疵」と同列に、陶磁器の「窯疵(かまきず)」について言及していることである。「窯疵」は、「山疵(やまきず)」とも呼ばれ、陶磁器の焼成中に窯内で発生した造形上の瑕疵のことで、例えば登り窯の天井が剥がれ落ちて器体に付着したり、薪の灰が器体に降ったりして生じる造形(いわゆる「降りもの」)などが該当する。この「窯疵」について、柳は以下のように述べている。
これは必然の疵であって、同じ失敗〔しくじり〕でも自然さがあります。時にはこれで強ささえ増します。こうなると疵が一風景となり、疵が美しさに加担します。2424前掲注一五、一八三頁
この文章からは、当時の柳がただならぬ熱意をもって収集対象としていた、ある造形が想起される。それは、「灰被」(はいかづき)と呼ばれる造形である。
「灰被」は、焼成中の窯の中で、器物の表面に降って溶けた薪の灰の成分が、素地の成分と反応して釉となった造形(自然釉)である。これは一九五〇年代の柳が最も注目した造形としてしばしば論じられてきた2525松井健「晩年の柳宗悦と古丹波-末期の目は何を見たのか」(丹波古陶館学芸部編『丹波古陶館開館五十周年記念 丹波-いきる力が美をつくる』丹波古陶館、二〇二〇年)、佐々風太「無地の器の利他-柳宗悦の蒐集と思想を手がかりに」(『コモンズ』(第一号)東京工業大学・未来の人類研究センター、二〇二二年)、ほか。柳が特に注目したのは丹波焼(古丹波)に見られる「灰被」で、一九五三年頃から重点的な収集対象としていた。一九五五年をピークに一九五九年頃まで、数百点規模の大規模な収集が行われ2626白土慎太郎「解題」、日本民藝館学芸部ほか『日本民藝館所蔵 仏教絵画』日本民藝館、二〇二二年、六四頁、この間に二度の古丹波展が日本民藝館で開催されている(一九五六年、一九五九年)。丹波焼は平安時代後期に生産が開始された古窯であり、「灰被」は、主に鎌倉時代から江戸時代初期に生産された壺や甕などに見られる。
この造形は、「仏教美学」について思索する柳に強い示唆を与えた。柳はこのように理解する-「灰被」には、「汚れがそのまゝに美しさに転じ、味ひをいや増さしめてゐる」2727柳宗悦「物と法」(一九五五-一九五六年初出)、『柳宗悦全集 第十八巻』筑摩書房、一九八二年、九一頁という特徴が見られる。「灰被」は「窯の中で起つた『失敗〔しくじり〕』」であり、陶工たちは意図していなかったばかりか「出来るなら避け度い」「そんな疵を作りたくはなかつた」ような造形であった2828柳宗悦「丹波の古壺に寄す 茶器美への一考察」(一九五八年初出)、『柳宗悦全集 第十二巻』筑摩書房、一九八二年、四四〇頁。しかしそれは、素材や窯の構造がもたらす「必然の結果」であるため、「その疵の中に人の罪は宿つてゐない」2929前掲注二八、四四〇-四四一頁。「人の罪の宿らぬ世界での出来事」であるから、「疵でも清浄」であって「醜くても内に醜くないものがあ」り、そのままに造形美へと転じている3030前掲注二八、四四一頁。
柳は「灰被」の成立過程に浄土仏教の教義を投影して論じ、「焼物に見られるこの他力の恩沢の最も著しい例」3131前掲注二三、二一六頁と位置づける。柳の見るところ、焼成中の避けがたい灰という「疵」は、作り手の視点からすれば「罪」であり「醜」であった。しかしそれをコントロールすることができず避けがたいままに作り手が立ち尽くすとき―すなわち自然素材の特性や偶発性という「他力」に対して作り手が「不完全をも容れる」「美と醜との二がない」、徹底した「愚」の態度3232前掲注二三、二一四頁を取るとき―その「醜」はそのまま「美」に「成る」。「人間のしくじりが、自然の手柄となって甦つてくるのは、他力のまがひもない証拠を目前にみること」3333前掲注二七、九一頁であると、彼は語る。柳によれば古丹波の灰被壺は、「成仏した品物」3434前掲注二七、八八頁であり、浄土真宗で説かれる「悪人正機」の体現者である3535前掲注二三、二〇七-二一六頁。
ここで、使用や経年に伴う「疵」の問題に立ち帰ろう。ここまで見てきたように、柳がエッセイ「疵の美」を記した一九五〇年代、器物の傷や汚れは、「仏教美学」の例証、「他力」を説く存在として、柳にとってそれまでにないほど特別な意味を持つようになっていた。よって、「必然」「自然」に窯内で生じる器物の「疵」と、「人為を越えた恵み」としての使用痕や経年変化が同列で論じられるとき、それが単に瑕疵という造形上の類似性の指摘に留まるものでないことは明らかである。これは、当時の柳の、前者への宗教哲学的な意味づけと特別の思い入れが、後者にも投げかけられた言及であると見るべきであろう。すなわち、彼がそれまで行ってきた、器物の使用によってもたらされる傷や汚れをめぐる思索は、一九五〇年代、新たな「疵の美」を示す造形物との出会いによって著しく深化したと考えられるのである。かつて「人の愛」「器と人との相愛」の結果と語られていた使用痕や経年変化による造形が、エッセイ「疵の美」では「人為を越えた」力(「他力」)によるものと語られ直しているのを、見過ごすことはできない。
これを踏まえると、「不完全をも容れる」「美と醜との二がない」という「仏教美学」で説かれる作り手の理想的な態度を、用い手にも適応可能なものと柳は認識していることがわかる。柳にとって、「窯疵」において「疵が美しさに加担」することと、器物が使われる中で「使い込みの恵みを素直に受け」ることは同義なのである。柳にとって、器物を所持し使用する者にも、「不完全をも容れる」態度は欠かせないものであり、器物を美しく用いていくこともまた、「他力の恩沢」の中での出来事なのである。彼にとって、使用痕や経年変化という「疵の美」「不完全の美」は、作為のない、自然な器物との関わりの中で発生するものであった。比喩を用いて述べるならば、暮らし自体が一つの窯となって、「窯疵」のように偶発的に、使用痕や経年変化が生じる-これが柳の理解であると言えるであろう。
一九五〇年代の柳は「仏教美学」の形成と共に、器物を「用いる」主体を、「人為を越えた恵み」「他力」と位置付けるようになっていたのである。