「用いる」ことをめぐる柳宗悦の思想 ―「仏教美学」との関わりに注目して
器物を「用いる」ことによる傷や汚れが、「美しさ」や「味わい」に転じる様相に、柳宗悦は「他力」の世界を見た。
茶道においては、茶碗の貫入やピンホールから茶が染み出てきた様子を「雨漏」と称して愛でるなど、汚れや褪色を「景色」として評価する伝統がある。例えば根津美術館(東京都港区)に収蔵されている《雨漏茶碗 銘 蓑虫》などがその典型例で、優れた「景色」を有する茶碗として評価を受け鑑賞されてきた。出川直樹などによって指摘されてきたように3636出川直樹『民芸』新潮社、一九八八年、一〇六頁、ほか、柳の美意識もこうした茶道の美意識に通じるものであると言えるが、柳の見方の特色は、単に「景色」を愛でるのみならず、その発生の過程に宗教的な原理が働いていると理解しているところにある。かねてより彼が、器物について、「『味わう』とか『愛玩する』とかに止まらず、何がそれを美しくさせたか。いかなる領域からその美が発しているか。」といったことを思索すべきと考え3737柳宗悦『工藝の道』(一九二八年初出)講談社学術文庫、二〇〇五年、二二六頁、それを「今までの茶人たちが充分に触れることなくして終った仕事」3838前掲注二、八八頁であると語っていたことを忘れてはならない。
器物の造形と宗教の連関を説く点に、柳の論の独自性はある。松井健が、「多くの仏教に関する近代の書籍、鈴木大拙や清沢満之を含むこれまでのあらゆる宗教書と柳の立場が違っているのは、まさに、このもっとも重要な宗教的『信』の中心に、美しいものをおくところ」にある3939松井健『民藝の機微』里文出版、二〇一九年、一二三頁と指摘するように、特に晩年の柳の浄土仏教への注目は、常に具体的な「物」への関心と強く結びついていた。柳の最高傑作とも評される『南無阿弥陀仏』の冒頭でも、器物への関心が「私〔引用者注・柳〕を浄土思想に一入深く近づかしめる因縁になった」4040柳宗悦『南無阿弥陀仏』(一九五五年初出)、『南無阿弥陀仏 付心偈』岩波文庫、一九八六年、四〇頁と語られ、浄土仏教の教えは「実に『物』にも適応されるべき真理」4141前掲注四〇、四五頁であると記されている。彼が最晩年まで、「『美しき物』が見えずして『美しさ』を扱ったとて、意味が浅い」4242柳宗悦「仏教美学の悲願」(一九五八年初出)、水尾比呂志編『新編 美の法門』岩波文庫、一九九五年、四八頁との信念をもち、「論を抽象に流れないように」4343前掲注四二、一四頁、具体的な「美しき物」を集めながら、通底する「美しさ」について思索し続けるという帰納的なプロセスを基本としていたことは、彼の思想を検討する際、絶えず思い起こされる必要がある事実であろう4444様々な「物」と触れ合う中で柳に生じた感覚の変化について、柳兼子が以下のように回想しており興味深い。「〔引用者注・新婚当初の宗悦は〕きれい好きで手でも始終アルコールでふいて、神保町の古本屋から古本を買ってきても、一枚、一枚を、脱脂綿かガーゼにアルコールをもって湿してふいてるくらい」であったが、「何年かたって、古ものを探すようになったら、もうねえ……。呉服屋の裏に引っかかってた、子供のお寝しょしたふとんをはずさせて、もらってきて、これ洗濯しろ、なんて言われたりしてね、まるで違ってきちゃったんです。〔略〕大変ですよ。ほこりは出るしねえ。そりゃね、皆さんの想像にならないくらいでしたよ」(水尾比呂志『評伝 柳宗悦』ちくま学芸文庫、二〇〇四年、五三四頁)。「物」と出会い触れ合っていく過程は、潔癖症だった柳の身体の感覚に著しい変化をもたらしたのであろう。この点について指摘したのは、管見の限り、松井健(『柳宗悦と民藝の現在』吉川弘文館、二〇〇五年)、田中雍子(「柳先生と日本民藝館」、日本民藝協会『民藝』六四四号・二〇〇六年八月号、日本民藝協会、二〇〇六年)のみであるが、彼の思想形成を検討する際、見逃すことのできないエピソードであるように思われる。。
阿満利麿は、柳の思想は「物のあり方を根本的に吟味する」4545阿満利麿『柳宗悦 美の菩薩』(シリーズ・民間日本学者 五)リブロポート、一九八七年、二〇六頁経路の宗教思想であること、柳が器物を介して「現世に浄土を見る傾向がきわめて強い」こと4646阿満利麿「解説 『美の法門』を理解するために」、日本民藝館監修『柳宗悦コレクション 三 こころ』ちくま学芸文庫、二〇一 一年、四一八頁を指摘しているが、これは晩年の柳が器物の使用痕や経年変化を見、また自ら器物を普段使いする際にも実感していたことであったと見てよいであろう。柳にはこの現世の「物」を「用いる」何気ない行為の中にも、「人為を越えた」「他力」の働きが見出されたと考えてよい。
補足するならば、彼が「現世に浄土を見る」際の大きな特色は、器物の造形美への彼の感動―彼の言葉を引くならば「『美しい世界がこの目前にある』という簡明な事実」4747柳宗悦「名古屋大会への御挨拶」(一九五九年初出)、『御挨拶』日本民藝協会、二〇〇四年、八頁―を起点としていることによる、独特の楽天性にあるように思われる。「凡てが美しさに受取られてゆ」く「他力」の世界への柳の信頼は、器物の造形美が偶発的あるいは自然発生的に、現下に生成されているという感激に深く依拠している。彼は、本稿で考察してきた「疵」について、「人間の目から見れば疵かも知れないが神の目から見れば完全である」4848小林多津衛「丹波の古陶の大展観」、東京民藝協会編『民藝』(四八号・一九五六年十二月号)東京民藝協会、一九五六年、四九頁。なお、柳は「神」という語も「他力」「仏」「自然」という語と原則的に同義語として用いており、「いたずらに宗派に滞ってその文意を受取ることがないように切望する」(前掲注一七、一 一三頁)と述べている。と断言する。醜がそのままに造形美に転じる不思議は「仏智としてみれば明々白々のことである」4949前掲注一七、九二頁とも語る。よく知られるように、ここには柳が若き日から、ウィリアム・ブレイク(一七五七- 一八二七)をはじめとする神秘主義者の文献から学んだ思想の影響が色濃いのであるが5050近年の研究では、佐藤光『柳宗悦とウィリアム・ブレイク 環流する「肯定の思想」』東京大学出版会、二〇一五年、などがある。、並行して、彼が器物の鑑賞と使用を通してこうした理解を形成していったことはこれまで見てきたとおりである。特に、一九五六年十二月病に倒れ、半身不随になって移動も外出もままならない状態となった最晩年、彼は文字通りの座右の器物と共に「仏教美学」を形成していく。本稿で考察してきた、使用痕を一身に受けて物が美しくなっていく様、使い手のもたらす致し方のない傷や汚れがそのままに造形美に転じていく様相は、世界に対する柳の理解、すなわち彼の宗教理解に非常に示唆的な面を持っていたと考えてよいであろう。