「河口慧海旧蔵」と判明 ― 立正大の大崎図書館所蔵資料(1/2ページ)
立正大仏教学部助教 庄司史生氏
立正大大崎図書館に貝葉形態の仏典数点が未整理のまま所蔵されていた。同館によると、それらはいつの頃からか寄贈本として館内に保管されていたもの、ということであった。長らく未整理の状態にあったものの、同館ではそれらに一通りの補修を施し、その上で特注の桐箱に収めて保管していた。
2009年12月、同館の未整理資料の整理業務に従事していた筆者は、幸いにもそれらを閲覧する機会を得た。そこで手に取った文献は、表紙に「佛教宣揚会蔵書之印」が押印されたチベット語訳『八千頌般若経』であった。早速調査を開始したところ、同館にはこの他にもチベット語文献、サンスクリット写本、パーリ語写本が所蔵されていることが確認された。さらに調査を進めた結果、それらが河口慧海請来資料の一部であることが判明したのであった。
2度のチベット行きを成し遂げた河口慧海(1866~1945)が、ネパール、チベットなどから請来した資料が本人により東洋文庫、大正大、東京大へ寄贈されていたこと、また彼の没後には遺族の意志により東北大へと資料が譲渡されていたことは周知のごとくである。実際はこの他にも、彼の甥である河口正の著書『河口慧海―日本最初のチベット入国者』(1961年)に、彼の没後、その旧蔵書中、「洋書、和漢書、その他」が東西文化交流研究所(立正大内)に一括譲渡された、との記事がある。
ただし、これまで「河口慧海請来資料」という点からそれらの資料に関する調査が為されたことはなく、また資料が譲渡されるにいたる経緯について言及されたこともなかった。そこで東西文化交流研究所について調べてみると、同研究所は『文化交流』なる雑誌を2冊刊行している。そこには同研究所設立に至るまでの経過が記されていた。
それによると、同研究所は本来、高楠順次郎を中心とした研究会を母体としており、高楠の没後には、三枝博音、J・R・ブリンクリー、佐々木峻の3人によって引き継がれ、「河口慧海師の西蔵仏教研究の資料の調査研究」を行い、後に「この研究会の趣旨に石井光雄、伊東忠太、石橋湛山、金森徳次郎、中山太一、赤尾好夫、鈴木大拙、中島健蔵の諸氏が賛同せられ」、1952年、東西文化交流研究所を創設したとある。
ここに名が挙がる石橋湛山の『湛山日記』を紐解くと、51年8月24日の項に「東西文化交流研究所及び河口恵(ママ)海師蔵書買取りの件」に関する記述を見出すことができる。同研究所については不明な点が多いものの、この資料は、同研究所の主要メンバーであった石橋湛山(52年より立正大学長、56年より第55代内閣総理大臣)を通じて立正大へともたらされたものと考えられる。要するに、河口慧海の没後、彼の手元にあった資料が、東西文化交流研究所へ譲渡され、その後立正大大崎図書館へと寄贈されたことになる。
立正大大崎図書館が所蔵する河口慧海請来資料は、サンスクリット写本(大乗経典2点)、パーリ語写本(未比定3点)、チベット語文献(大乗経典、論典、文典計31点)である。この他に、請来資料ではないものの、洋装本の洋書(約100冊)、和書(約200冊)、和装本(約130点)といった彼の旧蔵書をも含む点に特色があるといえる。この中、請来資料の全容については、同館が編纂した『立正大学大崎図書館所蔵 河口慧海請来資料解題目録』(2013年)に紹介されている。洋装本と和装本については今もなお調査中である。