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2024宗教文化講座

「真渓涙骨と中外日報」

真渓涙骨

■生い立ち

真渓涙骨(またに・るいこつ、本名正遵)は、1869(明治2)年1月27日、福井県敦賀郡東浦村田結(現在の敦賀市)の浄土真宗本願寺派「興隆寺」の長男として生まれた。16歳になり、京都の本願寺派の宗門校、普通教校(龍谷大学の前身)に入学するものの、1年で退学した。その後、涙骨は本願寺派の名僧として知られていた博多万行寺の七里恒順に師事し、約3年仏道修行に励んだ。七里師の下を離れてから、職を転々としながら各地を放浪したとされているが、どこで何をしていたのか、この間8年近くの消息はよく判っていない。

■新聞の創刊

1897(明治30)年2月に京都に舞い戻った涙骨は、仏教の覚醒と宗教界の革新を志して超宗派の宗教新聞の発行を決意し、同年10月1日、「教学報知」の名で創刊する。時に28歳の秋。当時の紙面は、論説、雑報、随筆、投書などで構成され、タブロイド判8頁だった。創刊当初は涙骨本人が原稿執筆、校正から、六条界隈で腰にぶら下げた鈴を鳴らしながら(新聞の)振り売りまで行ったという。

東西本願寺の動向を中心にした記事から次第に仏教の他宗派、神道、キリスト教などに報道対象を拡げ、創刊740号を迎えた1902(明治35)年1月15日、紙名を現在の「中外日報」に変えた。

■「涙骨」の由来

自身で「生来新聞の虫」と称するほどの新聞好きだった涙骨は、自ら新聞を創刊する以前から様々なペンネームを使って投稿する青年だった。

父親になった涙骨は、可愛い娘の「幸子」を満1歳の時に亡くした。葬儀の帰り途に骨壺の中に収まっている我が子の骨を見て涙が止まらず、その涙が骨にしみ込んだ痛切な体験をする。その思いを込めて、以来「涙骨」の雅号を名乗り続けることになった。

■船底の火夫

涙骨は1914(大正3)年から、87歳で生涯を終える1956(昭和31)年までの42年間、中外日報の紙上に「編集日誌」を執筆し続けた生涯新聞人であった。

「火夫はただ船底深く潜んで火を焚くのが専務だ。その本分を忘れまいぞと自戒する」。この箴言は涙骨の座右の銘でもあった。火夫とは、船の機関員のことで、宗教学者の山折哲雄氏は「これはみずから船長でありながら、常に船底にあって火を焚き続ける火夫であろうとした覚悟を示すものである。涙骨の一生をみればわかるが、氏は一貫して目立ったり有名になったりすることを避け、ただひたすら「中外日報」という船の動力となるべく経営と編集の両面にわたって六十年間、火を燃やし続けたのである」(「涙骨抄 生きる智慧」の序文。法蔵館刊)と、その思想と行動を評価する。

■反骨の人

涙骨は反骨の新聞人だった。「編集日誌」で展開した言論は客観公正を旨とし、「『陰から拝まれる人』でなければ宗教家とはいわれない」「宗教の名に隠れたる草賊を一掃し去らざる以上、真の信仰は興らない」などと筆鋒鋭く宗教界への批判を繰り広げ、広く注目を集めるようになった。

一方、宗教ジャーナリズムを先駆けた中外日報の初期の頃には、清沢満之、三宅雪嶺、大隈重信、幸田露伴など当代一流の宗教家、思想家、政治家、作家らが寄稿し、大正時代になると菊池寛、佐々木信綱、若山牧水、折口信夫、武者小路実篤、島村抱月、三木露風ら錚々たる顔ぶれの作家、歌人、国文学者が紙上で発言した。一人を知れば一憂を増す」として隠遁主義、絶交主義を貫いて、最後まで世の表舞台に立たなかった。

明治、大正、昭和の三代を新聞に生きた涙骨は、終の棲家となった建仁寺僧堂内の左辺亭で、昭和31年4月14日に87歳の生涯を終えた。

臨済宗大徳寺派の大本山大徳寺(京都市北区)の塔頭、瑞峯院の墓所に「涙骨」の文字の刻まれた無縫塔が建っている。