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第21回「涙骨賞」受賞論文 奨励賞

京都学派における天皇論の系譜

―転換期の克服と『媒介者』としての天皇―

岩井洋子氏

はじめに

本稿は、京都学派の天皇論の意義を再考することを目的とする。これまで、京都学派の天皇論は、天皇絶対主義を意図するものとされてきた。本稿では、そうではなく、天皇を「媒介者」11媒介者M=絶対無であるが、絶対無は相対的有の対立を媒介する原理であるが、それ自体は無であり、非実体的なものである。とし、相対的対立を超えた第三の位置にあるものとすることによって、当時の日本が置かれていた転換期における諸問題を克服しようとしたものではないかという問題提起とその論証、並びにその現代的意義を求めるものである。

これまで、京都学派の代表者である西田幾多郎の天皇論研究については、上田閑照が提唱した「意味の争奪戦」という解釈が中心であり22上田閑照「西田幾多郎――『あの戦争』と『日本文化の問題』」(西田幾多郎没後50年<特集>)「思想」(857)、平成7(1995)年11月号。ここで上田は『日本文化の問題』は「当時の状況の現在のなかでは大胆な批判の遂行である」(同前、116頁)と述べている。、藤田正勝33藤田は「意味の争奪戦」について次のように説明している。西田が「皇室」、「皇道」を取り上げる場合、「かくかくの意味においてでなければならない」(藤田正勝『西田幾多郎――生きることと哲学』岩波新書(1066)、平成19(2007)年、174頁)という仕方で論を展開しており、「その意味をそのまま前提にするのではなく、そこに自分の立場から積極的に意味内容を付与しようとしていた」(同前、173―174頁)。、田中久文、岩野卓司等に受け継がれている。これは、西田が、「皇道」「八紘一宇」などに新しい意味づけを付与することで、従来の概念の意味を争奪し、その解釈の見直しを通して皇室制度を変えることで社会も変革していこうとしていたのだという解釈である。

例えば、田中久文も、西田が「皇道」を述べることは、皇室を世界に押し広げようとする皇道の覇道化、帝国主義化が目的ではなく、逆に、日本の皇室制度には帝国主義を克服するヒントがあるとみていたとしている。なぜなら、皇室を「無の有」であるとすることは「『無』を根拠として『主体』的なるものを超越し、『主体』と『主体』との対立を融和させようとするもの」44田中久文「『創造』論としての日本文化論――西田幾多郎『日本文化の問題』について」『理想』(681)理想社、平成20(2008)年、52頁。だからであるというのである。

本稿は、西田を中心にした京都学派の天皇論について、こうした田中の述べる「対立の融和」という視点を基軸としながらも、単に帝国主義の克服にとどまらず、転換期における諸課題の克服の論として再解釈しようとするものである。それは、京都学派の天皇論が、概念の意味の変更に尽きるものではなく、そこからさらに新たなる天皇制理解を導き出せるものであるということを意味するものでもある。

一、西田幾多郎にとっての天皇とは何か

(一)「絶対的事実」としての天皇

西田は昭和15(1940)年の『日本文化の問題』で、皇室について次のように述べている。

我国の歴史に於て皇室は何処までも無の有であつた、矛盾的自己同一であつた。(N12・336)55西田幾多郎『西田幾多郎全集』全19巻、安倍能成ほか編、岩波書店、昭和53(1978)―昭和55(1980)、以下、ここからの引用は(N巻数・頁数)を文中に埋め込む。(凡例)ここでの(N12・336)とは、西田幾多郎全集、第12巻336頁を意味する。

ここから見る限り、西田は皇室を「絶対無の場所」(絶対矛盾的自己同一の世界)の象徴とみていると考えられる。そして、西田のこのような考え方は、従来は「『絶対無の場所』とか『世界』とか考えたものの象徴として皇室を論じ、天皇制の永遠性と絶対性を説いた」66山田坂仁「西田哲学と天皇制――あわせて田辺元氏の天皇制護持の哲学を評す」『現代観念論批判』ナウカ社、昭和23(1948)年、108頁。ものであり、「戦争に必要な封建的諸観念の最強化」(同)をはかったものであると批判されてきた。

だが、はたして西田の主眼は天皇の絶対性を主張することに限定していいのだろうか。

戦前の西田は、すでに大正7(1918)年の書簡で、国体国家論について批判的にとらえている。西田は、国体国家論というのは、万世一系ということをdogmaticに説くのみであるが、我国の国体はhumanityに基づくものであり、皇室は「慈悲 没我 共同の象徴である」(N18・207)としている。

ここからも明らかとなるように、これは、国体国家論、皇室そのものの批判ではない。そして、このような批判の仕方は、その後の天皇解釈にもたびたび現れることになる。

昭和10(1935)年の美濃部達吉の天皇機関説問題については「美濃部氏実に気の毒なり」(N18・524)とあり、さらに「天皇ハ統治ノ主体」77佐藤丑次郎『帝国憲法講義』、有斐閣、昭和6(1931)年、49頁。であるとする佐藤丑次郎を批判する(N18・530)。だが、我々が、ここで着目すべきことは「ミノベ氏の説をよいと云ふのではない」(同)と西田が述べていることだ。西田は、天皇機関説それ自体の正否を問うのではなく、「反ミノベ説がこれまで学問上衰へたか」(同)という歴史的事実から、判断をおこなおうとしている。

ここにあるのは、「―それが存在するという―歴史的事実」を重んじる西田の姿勢だ。西田は、「我々人間は歴史的世界から生れ、歴史的世界に於て働き、歴史的世界へ死に行く」(N12・397)とし、人間は「歴史的世界の形成力」(同)でなければならないとする。さらに、歴史的社会とは、「主体が環境を、環境が主体を形成し、主体と環境との相互限定」(N12・401)する世界であるとする。

このように、西田は抽象論理の立場のみで論を展開しない。だが、事実の立場だけに立つというのでもない。なぜなら、西田の目には現象学の立場は単なる説明でしかなく、唯物論は環境のみを重視するものと映るからである。「主体と環境との相互限定」とあるように、西田にとって事実を探求することは、主観主義的立場を超えたものを求めようとするという意味を持つと同時に客観的な立場を超えようとする意図を持つものである。

そこで、西田の用いる方法は単なる哲学的探求ではなく「哲学的歴史的研究」(N18・530)というものである。事実を「点」として見ることで空間的な意味を問うばかりではなく、時間軸から掘り下げて、「形」として立体的にその意義を求める。そして、この思考方法の目的は、西田の書簡によれば、事実を介して、歴史的現実の持つ論理的構造をさぐることで、「歴史的実在とは何か」を求めることを哲学の中心問題としていることにある(N18・512)。

それゆえ、ここで我々が注目すべきことは、西田が、「万世一系の皇室」とは、日本人にとって「絶対的事実である」(N12・411)と述べていることだ。これを、これまで論じてきたことからとらえると、西田にとって、天皇とは、天皇であることが絶対なのではなく、「絶対的事実であるということ」「今日まで生々発展し来たり」(N12・418)に意義があるといえるのだ。

では、天皇という「事実」の持つ論理的構造を西田はどのようにとらえたのか。天皇というフィルター(歴史的事実)を通して西田のとらえた歴史的実在とはどのようなものか。このような観点から、西田の天皇論を再考する必要が我々にはあるのではないか。

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