京都学派における天皇論の系譜
―転換期の克服と『媒介者』としての天皇―
ここで西田と高山の両者に通底するものについて考察してみたい。西田にとって「世界」とは「作られたものから作るものへ」と動いて行く「絶対矛盾的自己同一の世界」である。西田はこうした「世界」について、「主体的なるものを超越して、主体的一と個別的多との矛盾的自己同一として自己自身を限定する」(N12・335-336)ものと説明している。こうした「世界」において、個物はそれぞれ独立しているものとして多であるが、「媒介者M」に媒介されて一となる。それによって「一即多」「多即一」と言われている事態が成立する。
このように、「媒介者M」は、対立するものを弁証法的に統一するものである。社会が行き詰まるとき、すなわち転換期においては、それまでの歴史的経緯としてある「空間的連続としての機械的因果関係」(N12・321)や「時間的連続としての合目的的因果関係」(同)を越えた、「絶対の表現」(N12・344)としての「媒介者M」の働きによって危機的状況が克服されると西田は考えており、その「客観的表現」(N12・351)が天皇だとされていたのである。
それを受けて、高山は我々の根源にある絶対無から発現してくる「道義的生命力」がそれと同じ働きをすると考えたのである。そして、それこそが「歴史を動かす主体的原理」1818同前、37頁。であるとしたのだ。高山は「道義的生命力の根源は無底である、即ち絶対無である」1919同前、43頁。としているように、道義的生命力とは絶対無を根源とするものである。これが永遠を現実の中に現成し新たなる統一を形成することで新しき時代を建設してきたと高山は述べているのだ。
戦後25年以上を経た、昭和46年(1971)年、高山は「政体の傑作と駄作」という論文の中で、天皇について語っている。
ここで着目すべきことは、高山が「天皇制の活用」2020高山岩男「政体の傑作と駄作」『続政治家への書簡』創文社、昭和59(1984)年、128頁。(初出は『辛亥煩言』「日本法学・政経研究 別冊」、日本大学法学会、昭和46(1971)年。を述べていることである。高山は、天皇は平時には「 超権力的権威者 」2121同前、126頁。にすぎないが、「国家危急の際、まことに妙を得た働きを演じた」(同)という。
[・・・・・・]天下を二分するこれらの「特殊者」(particulars)に対し、これを超越する「普遍者」(the universal)が兵馬の権を握り、これが国民軍の終極統帥者となるのでなければ新建設は不可能となる。2222同前、127頁。
ここで高山が述べたいことは以下のようなことである。一般に時の権力者というものは、「沢山の『特殊者』の中における最強力の一つの特殊者」(同)にしかすぎないが、天皇は「特殊の次元を超出する『普遍者』に当るもの」(同)であった。それゆえ、大化の改新、明治維新という国家危急の時に、天皇を利用することで、対立するものの統合(「国民意志統合」(同))が可能となった。
ここにおける高山の論理は、先に紹介した戦前の西田の御進講における「あるべき皇室論」と同じ構造を持つ。そこで西田は、天皇を歴史の危機における対立するものの媒介統合者として位置づけていたが、同じように、戦後の高山も、天皇は、平常時は超権力的存在である権威的存在として存在しているが、国家危急の際には、特殊の次元を超えた普遍者として、国家の再統合に向けた働きをすると述べている。
高山は「国家危急の際、まことに妙を得た働きを演じたのが天皇制であった」2323同前、126頁。とし、これは外国のいかなる政治形式のカテゴリーをもってしても理解できない独自のものとしている。そして、高山は「このような役割を演じて来た天皇制の活用はまことに絶妙なもので、日本民族の政治的叡智の結晶 である」2424同前、128頁。と述べているのだ。
つまり、戦後の高山は、平和時と国家非常時では天皇のあり方は変わり、大化の改新や明治維新などの国家的危機に対して、天皇は対立の調停、統一の回復の実現をする政治的機能を担うというのである。
以上から考えると、西田も高山も、従来批判されてきたように、「絶対者=皇室」2525林直道『西田哲学批判』解放社、昭和23(1948)年、215頁。という考えに立って、日本的絶対主義のイデオロギーを形成し、「侵略戦争の哲学的基礎づけ」2626同前、182頁。や「侵略戦争の合理化、美化」2727甘粕石介「(解説)林直道のこと」、注(25)参照、2頁。を行おうとしたのではなく、対立する二項を統一する媒介者を考え、しかもそれを「主体的なるものを超越している」無空虚な存在とすることによって、時代の危機を逆に意義あるものとして肯定的にとらえ、克服しようとしたといえるのではなかろうか。