京都学派における天皇論の系譜
―転換期の克服と『媒介者』としての天皇―
二、京都学派の天皇観
以上のような西田の天皇論は、西田の弟子である高山岩男にも継承されている。高山は西田による御進講の翌年である昭和17(1942)年に書かれた「歴史の推進力と道義的生命力」の中で、これまで西田が展開してきたのと同じ論理を用いて、次のような転換期の克服の論を展開している。
西田は、それぞれの時代の主体である担い手が、環境に適さなくなったとき、「皇室(=無)へ返る」ことで回復がなされてきたと説いていたわけであるが、高山も、転換期には、絶対無が深淵から発現してきて、「理性の要求する固定的な善悪の相対的標準を越え」1313高山岩男「歴史の推進力と道義的生命力」『中央公論』(662)昭和17(1942)年、41頁。て、「相対を超越する絶対に通ずる」(同)道を示すとしている。高山によれば、歴史における転換期は、理念と現実との乖離、すなわち現実社会を構成している文化・政治・経済などの「統一的紐帯」1414同前、34頁。が失われることで生じるものであり、これに対して新たな統一的紐帯を形成することが転換期の課題の克服となるとする。
それは具体的には、転換期における人間の自己分裂―公私の分裂に対して、新たなる公私統一を形成する力、「統一的紐帯を形成する力」(同)としての絶対無が我々の背後から現れ、転換期の克服をなすという論理である。その場合、絶対無は公私が分裂するそのつど現れ、新たなる公私統一をなす「道義的生命力」として現れ、分裂に対して、「新たな統一を獲得せしめる活力」1515同前、35頁。となるというのである。高山は「公私の完全な調和統一こそ人間完成の理想である」(同)ととらえている。
これを、経済学において高山は以下のように説明する。近代経済学は純粋経済学を志向し、経済外の倫理・政治との結合を排したが、それがゆえに経済を現実から疎外し自己否定をもたらした。それゆえ、高山は経済外の倫理・政治と統一されることで現実の経済となると考える。
このように、対立するものの均衡が崩れることで生じる転換期に対して、媒介を介した正常な均衡状態の形成が転換期の克服ということになる。そして、この均衡状態は、絶対を相対の上に現成させ、相対と絶対が現在において綜合されることで形成されると高山は考える。
ここで高山が述べている統一的紐帯としての「道義的生命力」とは、西田が『日本文化の問題』でとりあげた「天皇」と同じ役割を果たしている。確かに、高山はこの論文では「天皇」については触れていない。むしろ、この段階では絶対無を現成するのは「鎌倉武士」1616同前、33頁。であるとも、「民族精神」1717同前、42頁。であるともいわれている。だが、この議論は高山においても、やがて「天皇」の問題と結びついていく。