如来の言葉
釈尊の入滅を偲ぶ涅槃会が過ぎると、今度は誕生を祝う花まつりが来る。約2500年前にインドで生まれた仏教が中国、朝鮮を経て伝来し、現代の日本でも親しまれていることを考えると何とも感慨深い◆ただ釈尊の教えには妙に分かりにくいことが多い。例えば誕生直後に語った「天上天下唯我独尊」は「生きとし生けるものみんなが尊い」などと一般的に解釈されているが、文字通りであれば、そのようには読むことはできない◆原始経典に精通する森章司・東洋大名誉教授の近著『ブッダと如来』によると、パーリ語の原始経典で、釈尊が自らを称す際、「如来は」とし、「ブッダは」とは一切言わないという◆釈尊は独悟しただけではなく、過去の諸仏の流れをくむ「如来」だとの自覚があったからだと解説する。そう教えられると、経典に現れる人間離れした表現や事績も、そのまま理解した方がいいのかもしれない◆近現代において仏教は哲学的な側面が前面に押し出され、「人間ブッダ」が強調されてきた。そのため輪廻や過去仏などは神話とされ、超人的な伝承は脚色として理解されてきた節がある。だが釈尊が在世中に自身を久遠実成・如来だと称しているのであれば「天上天下唯我独尊」はそのまま「我のみが尊い」と解釈すればよいのではないか。花まつりを機に「如来」の言葉を捉え直す必要がありそうだ。(赤坂史人)