特攻兵士の語り部 岡出とよ子さん(84)
太平洋戦争中、飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした特攻兵士が出撃前に寝泊まりした民間寮「攻空寮」で育った。戦後、寮に残された特攻兵士の辞世の句に突き動かされるようにして、幼き日の経験を現代の人々に語り継ぐようになった。2020年には特攻兵への思いをつづった冊子『特攻兵士 魂の叫び―特攻兵士と暮らした五歳の私』と、辞世の句を記した短冊のレプリカを作成し、慰霊のために全国の護国神社に奉納した。
岩本浩太郎
攻空寮というのはどういう所なんですか。
岡出 戦前、三重県伊勢市の明野に陸軍飛行学校(現陸上自衛隊航空学校)があって、そこで将校となった兵士が寝泊まりする寮でした。太平洋戦争の末期になると、将校となった若い兵士は特攻に行かなければならなかったそうです。寮は現在の近鉄伊勢市駅から程近い歓楽街にあり、父の酒徳喜作が運営していたため、私は幼い頃にそこで暮らしていました。
寮での特攻兵はどんな様子でしたか。
岡出 常時、数十人くらいの兵隊さんがいたように感じます。女中さんや板前さんもいました。夕方、明野から兵隊さんが帰ってくるとにわかに寮の中が騒がしくなります。夕食時には大宴会が始まり、出征を祝う乾杯の声が上がったり、歌を歌ったりして毎晩にぎやかなものでした。
当時、まだ5歳だった私はまさかこれから死にゆく人の食事会とは夢にも思いませんでした。寮には特攻兵士の家族がしばしの面会を求めて訪れることもありました。明野の飛行学校の偉い人が出征前のわずかの期間だけでも兵営外の空気を吸わせてあげたいという配慮があったのかもしれません。
悲愴な様子は全く見受けられなかったのですか。
岡出 兵士が出征する朝は夜のどんちゃん騒ぎがうそのように張り詰めた雰囲気でした。私は父母と女中さん、板前さんと玄関に横一列に並んで出征兵士に「いってらっしゃいませ」と言って、頭を下げたっきりで送り出します。
ある兵士が出征する朝、いつものように頭を下げていた私を兵士がぎゅっと強く抱き締めました。そして、私の耳元で「とよ子ちゃん、行ってくるよ」って言うんです。私はその兵隊さんが帰ってくるとばかり思っていました。ずっと帰りを待っていました。
事情が分かるようになるのはずっと後ですね。
岡出 40代の時、沖縄戦激戦の地・摩文仁の丘(沖縄県糸満市)の平和祈念像を目の当たりにした際に「ああ、帰ってこなかった兵隊さんは…
つづきは2024年7月10日号をご覧ください