善人会
知識も良識もある人たちが集う仲の良いグループがあった。ある時、この和気藹々の集まりに名前を付けようという話になり、一人が「善人会」はどうかと提案した。悪事をなすような人はおらず、世間で善き人として知られる人物ばかりだから、誰が見ても善人ばかりの集まりには違いない◆ことさら異を唱える理由はなく、「その名前は困る」と反対するいわれもない。ただ、自ら進んで「善人」の表札を掲げることに賛同するのは、どこか後ろめたいと言わないまでも、くすぐったさ、居心地の悪さをそれぞれが感じていた◆善なるものは神のみだと言ったのはイエスである。マタイ伝第6章に「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである」とあるのは、自らの行為を善行と分からせるように行うことは偽善に通じることを戒めた言葉だろう◆善悪の評価は自分で下すものではない。「私たちは善人の集まりだ」とわざわざ自負を表明するのは嫌みでもある。半面、堂々と「善人」を掲げることには、ある滑稽さ、おかしみを伴うニュアンスもある◆果たして提案者はそこまで熟考した上であえてその名を持ち出したのかは疑わしいが、「私は悪人」と告げることと「私は善人」と名乗ることには、自己についての自覚と認識に根源的な違いがある。(形山俊彦)